飲んで死ぬか、やめて生きるか
【急性アルコール中毒者の数】
2015年に救急車で搬送された人:14303人
出典:東京消防庁資料
由紀夫 「すいません、お待たせして。どうぞお掛けください」
悩む人 「よろしくお願いします」
由紀夫 「おや、耳まで真っ赤じゃありませんか。酔ってますね」
悩む人 「はあ、気持ちを落ち着けようと思ったものですから。そんなに赤いですか」
由紀夫 「誰が見てもわかりますよ。どのぐらい飲みましたか」
悩む人 「300ml入りのカップ酒を3つばかり・・・」
由紀夫 「泥酔者の相手をするほど暇ではないのですよ。お引き取りください」
悩む人 「何とかお願いできませんか。どうしても話を聞いていただきたいのですが・・・」
由紀夫 「そこで寝てなさい。次の面会の方とお会いしてから来ます。まさか、酒を持ち込んではいないでしょうね」
悩む人 「はあ、いつもはウイスキーのポケット瓶をふところに忍ばせてますが、今日は何も。ホントです。信じてください」
由紀夫 「とにかく眠りなさい。話は酔いがさめてから聞きましょう」
悩む人 「まだ顔に出てますか」
由紀夫 「顔色は普通ですが、目が死んでますよ。あなたみたいな人は初めてです、全く。どうしても酒がやめられない、いい知恵があれば貸してほしい・・・先日いただいたご要望と今日の態度を合わせれば、もはや何をか言わんやですな。その行動原理を、わかりやすく解説してほしいですよ」
悩む人 「恥ずかしい限りです。あの、40歳を過ぎたあたりから飲み方が変わったと女房に言われるようになりまして。私の場合、怒鳴り散らしたり、女性に触れたり、といったことは一切ないのですが、その、とにかく記憶がなくなるまで飲まないと気が済まないんです。焼酎が多いのですが、だいたい、4合瓶1本空けると、そこから後のことは覚えてません」
由紀夫 「奥さんが娘さんを連れて実家に帰った直接の理由は、何かあるのですか」
悩む人 「半年ほど前、仕事でイヤなことがありまして、それでイライラしてしまい、ウイスキーをビール用のジョッキに入れて一気にあおったんです。そうしたら心臓が凄まじいことになって、死ぬんじゃないかと怖くなり、台所にいた女房に救急車を呼んでもらったんです。その1週間後ぐらいですね、出て行ったのは」
由紀夫 「救急車は何回目だったのですか」
悩む人 「もちろん初めてです。受け入れてくれる病院がなかなか見つからず、あっちこっちグルグル回ってました」
由紀夫 「1回で愛想を尽かされることはないでしょう。今までの積もり積もったものがあったはずですが」
悩む人 「はあ、私の場合、どこかで転倒するのか、何かにぶつかるのか、顔やら腕やら、もう血だらけになって帰宅することが多いのです。何せ覚えてないものですから。普通に食卓につくと、娘にその顔どうしたのって尋ねられ、驚いて鏡を見たら、何か所も血がこびりついていてたというような具合です。月に2回はありました」
由紀夫 「酒をやめてくれと、ご家族から言われていたんですよね」
悩む人 「はあ、4~5年前からずっと」
由紀夫 「やめなければ、という危機感はあったのでしょう」
悩む人 「今度こそやめる、絶対やめる。女房に誓いました」
由紀夫 「それは何回ぐらい」
悩む人 「7~8回ですね」
由紀夫 「奥さんは辛抱強い方なのですねえ。まあ、そこに救急車とくれば、どんなに我慢強い女性でも縁を切りたくなるでしょうね」
悩む人 「あ、あの、まだ縁は切れてないんです。戸籍上は夫婦ってことになってます。別居中ということですね」
由紀夫 「時間の問題ではないですか」
悩む人 「はあ、まあそうおっしゃらずにですね、何とか、その」
由紀夫 「あなたみたいな人を<天然ボケ>とでも称するのでしょうね。社会人として最低のことをしているのに、どこか憎めないところがありますよ。ふざけている風でもなく、悲壮感もなく、頭の悪い人にも見えない。ひとことで言えば、<どこかずれてる人>ですね。嫌われにくいタイプに育ててくださったご両親に感謝しなければなりませんよ」
悩む人 「はあ、お褒めの言葉ありがとうございます」
由紀夫 「褒めたんじゃありません。けなさなかっただけです。医師の診断は受けたのですか」
悩む人 「いえ、健康診断はそんなに悪くないものですから。搬送された時も、不整脈だとか言われただけで」
由紀夫 「断酒会というのがあるのはご存じですか」
悩む人 「女房にすすめられまして、参加したことはあります。でも、2回でやめました。あそこの常連さんたちには、ご飯に酒をかけて食うとか、一升瓶3本空けたとか、すごい人がゴロゴロいるんです。こんなのと同類だと見られたくないと思いまして」
由紀夫 「同類ですよ。専門医が何と言うかわかりませんが、私から見れば疑いなくアルコール依存症です。酒でダメになった人は何人も見てきましたが、あなたは既に地獄の入り口近くまで行ってますね。そろそろ視界に入りますよ、仁王立ちして待っている牛頭馬頭の姿が」
悩む人 「地獄ですか」
由紀夫 「奥さんと娘さんとの連絡は途絶えてますか」
悩む人 「きのう、娘からラインがきまして、真剣にお酒やめるならウチに戻ってもいいよ、って」
由紀夫 「まだそんなこと言ってくれるのですか。恵まれてる。あなたは本当に恵まれてます。家族に見放されて、タガが外れるようにして分解してしまう人が世間には珍しくないというのに。そのラインに返事したのですか」
悩む人 「まだしてないです。やっぱり、した方がいいでしょうか」
由紀夫 「人に聞いてる場合ですか。今すぐ返答なさい。やめようとがんばってるところだ、詳しいことはまたあらためてラインする、ってね。さあ早く」
悩む人 「ううん、まだ、<既読>になりません。塾にでも行ってるのでしょう。女房の実家からは遠いですが、通えない距離でもないですから」
由紀夫 「 メッセージを読まれる前に、話をすすめてしまいましょう。今のあなたには、2つの道しかありません。飲んで死ぬか、やめて生きるか。どちらを選びますか」
悩む人 「命と引き換えにできるほど大事なものじゃないんで、もちろん、やめて生きる方を選びますよ」
由紀夫 「結論の設定はできましたね。では、そこへ至る道筋をどう辿るか考えていきましょう」
悩む人 「そう複雑な道でもない気がするのですが、何せ躓いたり転んだりで」
由紀夫 「あなたの場合、洒落では済まないですからねえ。飲み過ぎて肝臓を壊す人は多いですが、あなたはそうなる前に事故で死にますよ。車にひかれるか線路に落ちるか川にはまるか、いずれにせよ、ろくな最期ではないでしょう。ご自分でも思いませんか」
悩む人 「まったくそう思います。後で考えてゾッとしたことが何度もありましたし」
由紀夫 「仕事でイヤなことがあったとさっきお話になってましたが、五十路の男性には失礼な質問をお許しいただくとですね、仕事は楽しいですか」
悩む人 「楽しいと思ったことはないですね。大卒以来ずっと同じ会社ですが、職探しが面倒だからい続けてるだけでして。学生の頃から、何かに打ち込むとか熱中するとかいうことがなく、何となく成り行きで就職を決めました。趣味と言えるほど好きなこともないですし。酒もですね、うまいと思って飲んだことはないんですよ。おかしいですよね、うまくもないのに飲むなんて」
由紀夫 「酒に依存してる人は皆さん同じです。飲みたいのではなくて、酔いたいのでしょう。酔えば目の前の現実にフィルターがかかりますからね。その状態で現状を見れば、ああこんなもんでいいや、という気になるのでしょう。辛いことがあっても、感覚を麻痺させることで、受容できたような錯覚を起こして、その間だけは能天気でいられますから。そうじゃありませんか」
悩む人 「酒飲んで忘れたいほど辛いことはないんです。ただ、その、ううん、何と言えばいいか・・・」
由紀夫 「給料明細はいつも見てますか」
悩む人 「はあ、今月も少ないなあ、などと思いつつ」
由紀夫 「基本給と職能給はどのくらいありますか」
悩む人 「いやあ、いつも手取り額しか見てませんので」
由紀夫 「住民税と所得税はいくら払ってますか」
悩む人 「見てないのでわかりません」
由紀夫 「月々の光熱費はいくらかかってるのでしょうね」
悩む人 「すいません、知らないです」
由紀夫 「家のローンは」
悩む人 「ええと、いくらだっけ、・・・あ、来ました来ました、ラインが。本気になったと自信持って言えるようになったら、またラインください、って」
由紀夫 「こう返事しなさい。あと100日待ってくれ、と」
悩む人 「100日って、ど、どういう意味があるのですか」
由紀夫 「言われたとおりにしなさい。早く」
悩む人 「はあ、わかりました。・・・いちおう送りましたけど、その、何ですか、100日ってのは」
由紀夫 「給料明細もよく読んでない、光熱費も、さらに、家のローンすら把握できていない。学生時代からのお話と合わせて、あなたという人がわかりました。あなたは年齢を重ねただけで、人間としての基礎ができていません。人間力不足です。明日から100日間、これから私の言う通りに生活してください。あなたには平日も週末もありません。何曜日であろうと、毎日決まった時間に起きて、食事も定刻に摂り、歯磨きも風呂も時間通りにやること。寝る時間も決めます。睡眠時間は5時間。それ以上寝てはなりません。何を食べようと自由ですが、酒を置いている飲食店には絶対入らないこと。近所にそういう店がないのなら、スーパーかどこかで買ってきて家で食べなさい。判で押したような当たり前の、単調で退屈な生活。あなたには、当たり前の生活を繰り返す力が欠けています。起伏に富んだ波乱万丈な生涯を送る人が、世にどれだけいますか。ほとんどが、替わらない日常を重ねて歳をとるのです。あなたはですね、暮らしというものをナメている。何となく生きていけると思い込んでいるんだ。意志がなければ、1日も生きていけないのです。風任せでは吹き飛ばされて終わり。あなたは無気力という風に吹かれ続け、いつの間にか自分の立ち位置がずれているのに気づいていない。酔っぱらっている場合ではないのですよ。天寿を全うする資格さえ、あなたにはありません。糊口を凌ぐということ、金を稼いで自力で生きるということの大切さが全然わかってない。金のために働くのがイヤだという者もいますが、じゃあ何のために働くのですか。生活費はどうするのですか。電気代は。ガス代は。水道代は。自分の昨日と今日と明日を繋いでくれているもの、自分を日々更新させてくれるもの、それが何かあなたはわかっていないし、わかろうともしていない。100日間、全く同じ生活を続けなさい。それを退屈だと退ける資格が、今のあなたにはない。朝出かける前と帰宅後、サイフの中身を必ず確認しなさい。もし、飲み屋のレシートが入っていたら、舌を噛んで死になさい。これを渡しておきます」
悩む人 「これは・・・彫刻刀ですか。なぜ」
由紀夫 「酒を飲みたくなったら、それで尻の肉を刺しなさい。尻なら死ぬことはありませんからね。彫刻刀が血に染まっても、洗わずそのまま使いなさい。頭に浮かべてごらんなさいな、ひとりっきりの家の中で、黙々と自分の尻に彫刻刀を刺し続ける我が身を」
悩む人 「・・・酒、やめます。本当に」
由紀夫 「100日後に生きて会えたなら、その時に次の話をしましょう。今日みたいに酔って来たら、その場であなたを殺します。殺人を犯しても、反省すればすぐシャバに出られますからね、この国は」
悩む人 「100日経ったらまた伺います」
由紀夫 「酔っ払いには会いませんよ」
悩む人 「普通の男として」
(了)