どうまわり由紀夫と申します。
勤め先の規定により、ハンドルネームでサイト運営しております。会社を辞めたら本名を公開します。今しばらくお待ちください。
このサイトでは、日々まじめに生きていくことで生じる悩みや疑問等を大きく5つのカテゴリーに分け、寸劇形式で回答を探っていきます。
原則として、広告は一切貼りません。販売サイトへの誘導も致しません。なぜなのか? 私は商売人ではないからです。
あなたも経験がありますでしょう?自分の直面した課題を解決しようと必死に情報収集しているのに、広告(特に動画広告!)のせいで画面が重くて固まってしまったり、ノウハウ情報だと信じてクリックしたら商品の販売サイトだったり。あなたがいわゆる「アフィリエイター」か、或いはそれを目指している方であれば、広告を載せないなんて馬鹿だとお思いかもしれません。そのお考えはわかります。でも、無償の行為は、どこまでも無償であるべきだと私は思います。物を売りたいのなら、amazonや楽天のように、web商店としての看板を掲げるべきでしょう。
自分で開発したものを売るならいいのです。例えば「ブログマーケッター・JUNICHI」さんのように。
広告をクリックして○円、商品一つ売って手数料が○%。ケチな世界ですね。小手先だけで稼いで、何が楽しいのでしょうか?まあ、いずれ消えていく人たちのことをとやかく言うのも時間の無駄ですね。やめましょう。
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私は今回を含め3回のダイエットを経験しています。
1回目は1984年8月~12月。21歳のときで、大学で柔道をしていました。身長175㎝なのに97㎏まで増えてしまい、ヒザ関節にガタがきたのです。整形外科医から、
「これは40代のヒザやで」
と言われました。ヒザの周辺の筋肉を鍛えるとともに、食事を減らし、82㎏まで減らすことに成功。しかし社会人になってからジワジワと太り出し、90㎏前後をうろうろし続けて、40代を迎えます。
2回目は2006年12月~2007年4月。88㎏→75㎏と13㎏減。この時は、昼食をカロリーメイト半分(200kcal)と野菜ジュースだけにしました。朝と夜は普通です。
その後、10年近くかけてまた増量し、2014年冬に21歳の時以来の97㎏に。その翌年の冬、重度の睡眠時無呼吸症候群であることがわかり、医師から厳命されます。
「体重を減らさなければ治りません。68㎏を目標にしてください」
こう言われた時すでに84㎏まで減らしていたのですが、まだまだ足りません。この日から昼食をやめました。2016年6月から11月までは朝も抜いて1日1食にして、ついに目標達成。勢いづいていた私は、さらに65㎏まで落としました(のちに少々戻りましたが)。
でも、無呼吸は全然治っていないどころか、ひどくなっていたのです。がっかり・・・しかし、だからと言って元の太った体には戻りたくありません。
2017年7月現在、66~68㎏あたりで推移しています。昼食抜きは習慣として定着し、1日2食で動ける「低燃費な体」になったようです。サカゼンの大きいサイズコーナーでしか服が買えなかった私が、今ではユニクロのSサイズのズボンをはき、一生縁がないと思っていたブランド「コムサイズム」で上下揃えられるまでになったのです。汗の量も減り、30℃を超す真夏日でも長袖のジャケットを平気で着ていられます。かつて着ていたサカゼンの大きな服は、全く合わなくなって廃棄しました。「まいうー」のオジサンがイメージキャラクターをやっているあの店では、もう二度と衣類を買わないでしょう。
無呼吸は相変わらずですが、血圧・血糖値・中性脂肪・悪玉コレステロール等々、高かった数値が軒並み下がり、内臓については何も問題が無くなりました。この調子で行けば、聖路加病院の日野原先生みたいになれるのでは?と期待しつつ日々を過ごしております。
・・・と、自らの「痩せ体験」を綴ったのはなぜかと申しますと、もともとこのサイトは、ダイエット記事を書く場所にするつもりだったのです。ハンドルネームもそれを意識して付けました。ですが、WEBライターとしてダイエット記事を書きまくっているうちに、なんだか馬鹿馬鹿しく思えてきて、自分のサイトをはじめから考え直すことにしました。変な表題だなと思われたかもしれませんが、考えに考え抜いた末にたどりついたものです。ご理解下さい。
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ここはプロフィールのページですので、可能な限り、素性を明らかに致しましょう。
私は1963年4月14日生まれ、54歳の既婚男性です。神奈川県藤沢市で生まれ、それから、兵庫県西宮市→広島市→岡山市→西宮市に戻ってその中で2回転居後、横浜へ移ります。
横浜から東京都江戸川区船堀4丁目のアパート「アビリティハイム」に移って数年後の1997年6月に34歳で結婚、江東区大島2丁目の古い貸家で新婚生活スタート。1999年に横浜市戸塚区に中古マンションを買って引っ越し、そこで長女が誕生します。
7階建ての5階に住んでいたのですが、真下の住人さんが神経質な人で、足音がうるさいと頻繁に苦情を言いに来るようになり、それにイヤ気がさして川崎市の狭い中古の戸建てに引っ越して16年目を迎えました。2003年には二女を授かり、娘二人の父に。
・・・と書けば順風満帆な人生みたいに思われそうですが、全然そうではありませんでした。
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最初は教師になろうと考え、1982年に入学した関西学院大学の文学部で教職課程を履修します。が、1回生の時に「日本史概説」という科目を落としたことで急にイヤになり、あっさりと教師への道をあきらめました。何の目標もないまま4回生になり、(食べものを扱う会社なら、わかりやすくていいだろう)と考えて、カルピス、味の素、ハウス食品、ニッスイ、ミツカンなど有名メーカーの面接を受けますが片っ端から落ち、結局、大阪市北区野崎町に本社のある食品輸入商社N社に入社しました。1986年です。ここは初年度に倉庫で荷物担ぎをやらせ、2年目に百貨店内の自社売り場で販売させて、3年目に営業として外に出す、という仕組みで新人を育成していました。
配属された大阪支店商品管理課は、阪急電鉄中津駅近くの、阪急線のガード下にあるウナギの寝床みたいな場所でした。元自衛隊員や、かつて高校時代に番長だった人などがいて、よく言えば個性的、悪く言えばガラの悪い職場でしたね。営業さんも、倉庫の片隅で、賞味期限切れの商品の輸入年月日をベンジンで消して売り飛ばすようなヒドイことをけっこう平気でやっていたりして、今から思えばブラック企業だったかもしれません。新入社員38名のうち、1年で20人が辞めました。(こんな会社辞めてやる!)と思ったのですが、行動に移せないまま、そごう神戸店へ転属となります。接客向きではないと思われたようで、入社3年目となる1988年春にそごうの物流センターへ配置換えされます。ここでは、筋肉痛で手が震えて箸が持てないほどの重労働もやらされ、「倉庫番になるために大学まで出たのか!そんなに倉庫が好きなら、三井倉庫や住友倉庫のようなまともな倉庫会社に行け!」と父に怒鳴られる始末。
関西にいてもダメだと思い、東京支店への異動を希望します。東京支店長のところまで行って、次回の人事会議で私を指名してくださいと懇願、何とか新天地・東京へ移れました。しかし、高額の輸入食品を売る仕事にうしろめたさを感じ、どうしてもやる気がでません。そんな時、かつて公害Gメンと言われた田尻宗昭氏の『四日市・死の海と闘う』という本を読んで感激し、自分も環境問題に関わろうと考えて、医療廃棄物処理の小さな会社に転職したのが1994年1月、31歳になる直前のことでした。ゴミ屋など絶対に許さんと猛反対する両親を押し切って向かった新天地は、暴力団や右翼の跋扈する危ない世界です。どうしたものかと考えあぐねていた1995年1月18日(あの、阪神大震災の翌日です)、ゴミ収集の途中に埼玉県深谷市で交通事故を起こして入院。退院後は破損した配達車の代金、レッカー移動料その他もろもろあわせて200万円ほど負担させられた末、クビになりました。
後で考えれば、おかしな会社でした。リクルートの紹介だったのですが、社長から、不合格ということにしておいてくれと頼まれます。そうすればリクルートに斡旋料を払わなくて済む、と。これだけで十分胡散臭いのに、社長の人なつっこさに魅かれていた私は納得してしまいます。契約書作成の際、相手方に印鑑をもらいに行くのが面倒だと、過去の契約書のハンコの部分をコピーして貼り付け、さらにそれを薄めに再コピーして貼り付けた跡を巧妙に消すなど、普通の企業ではあり得ないことがまかり通っていました。(何か変だな)と感じた時に辞めておけばよかったのでしょうが、100人以上の友人・知人に「医療廃棄物処理業界を新天地として云々」と印刷した挨拶状を送っていましたから、もう少し辛抱しようとがんばったのがいけなかったのです。
いわゆる<ベンチャービジネス>めいたものには絶対に手を出さないようにしようと心に決め、食品業界に戻ろうと思いました。神戸の洋菓子メーカーに決まりそうだったのですが、運悪く、震災で六甲の工場が半壊したとのことで、父からやめておけと言われました。並行して面接を進めていたのが下着メーカーで、衣料品はまったく知らない世界でしたが、下着は食品の次に大切なものだ、手堅くていいんじゃないかと父に言われたことで、その会社に中途入社しました。1995年3月のことです。
地方の量販店などを担当しますが、食品商社時代に売り上げ目標無視のめちゃくちゃな営業をやっていたため基本ができておらず、3年で百貨店事業部へ異動となります。百貨店事業部では、「出来の悪いのが回されてきた」と歓迎されず、食欲不振に陥るほどいじめられます。が、何とか成績を上げ、課長に昇格した翌年、45歳でうつ病を発症し、一次はパニック障害も併発してひどいことになり、とうとう47歳の時にギブアップ。「営業以外ならどこでもいいです」と上司に告げ、60日間休職します。今思えば、この時点でビジネスマンとしての自分のキャリアは終わっていたのですね。商品管理課に転属となりましたが、受け入れた側も人員不足だったわけでもないのに私を押し付けられたため、私にやらせる仕事がありません。苦肉の策で、パートさんたちにやらせていた百貨店からの返品の処理を私に与えました。やりがいのない退屈な業務で、一時回復したかにみえた精神病も再発して、大幅に年収を下げられた上さらに低額を提示され、「これでも残るか、それとも辞めるか」と取締役に迫られ、退社することに。
転職した東京・大森の和菓子メーカーでは、仕事が肌に合わず半年で退社。数か月の転職活動の末やっと決まった電話セールスの小企業は3日ともたず、情けなさでつい酒をあおる日々が続いていた頃、ずっと通っていた精神科の医師から、精神障害者向けの職場を新しくつくるから参加しないかと声をかけられます。ここは社員全員精神障害者だからストレスがない、働きながら精神病を治せると言われ、妻と両親に相談したところ、「今は精神病を完治させるのが第一」と背中を押され、そこに決めたのです。月給20万円。ボーナス夏冬各15万円と、年収300万円にも満たない超低収入ですが、医師から「ゼロよりはマシでしょう」などと言われて入社します。
そこへ移ってすぐ、高校時代の同窓会に出席しました。失業で疲れ果てた末に精神障害者扱いを受けることになった自分とは180度違う世界にいる旧友たちのことを知って(35年ぶりでした)私は愕然とします。市の教育委員長になっている者、独立して建築事務所を経営している者、研究者として本を出している者、起業してマザーズに上場した実業家等々、薄給の精神病者である自分の目にはまぶしすぎる姿ばかりです。あまりのショックと劣等感で手が震えてグラスが持てなくなり、会の終わりの頃はずっと手を引っ込めていたくらいです。
その日の夜、宿泊していた大阪のビジネスホテルでやけ酒をあおったところ、急性アルコール中毒のようになり、救急車で病院へ搬送されます。2015年1月10日・・・ああ、この日が俺の命日か、死っていうものは、案外急にやってくるものなんだなあ、とベッドの上で考え、いやいや、娘たちのことを思えば今死ぬわけにはいかんと考えを打ち消したり、ベッドの上で一人格闘していました。
症状が治まって解放されたのは深夜1時過ぎ。川崎に戻り、電話で母に近況報告した際(救急車のことは黙っていました)こう言われました。
「あんた、よう同窓会行けたなあ。ええか、教えといたるけどな、あんたぐらいの年齢で同窓会に出席できるのはな、ある程度社会的に成功した人なんやで。よう覚えとき」
妻に母のこの言葉を伝えると、「私も正直言って心配だった」とのこと。これを機にきっぱり酒をやめ、まずは精神病を治して、老人介護の資格を取得しました。老人ホームでボランティアを始め、施設長などスタッフさんから「職員として働かないか」と誘われていた矢先のことです。JR新橋駅の階段を駆け下りていた時足の裏に激痛が走り、歩けなくなります。近所の整形外科、大学病院、足の専門医、ペインクリニックと4人の医師に診てもらいましたが一向に回復しません。まともに歩けなければ老人介護などできるわけがなく、介護職員の仕事はあきらめざるを得ませんでした。
精神障害者事務所は異常なほど退屈なところで、毎日があまりに馬鹿馬鹿しく、さっさとやめたいのですが、この足では仕事がありません。しかたがないので、とりあえず、精神障害者として働き続けています。薬をやめてもう2年になるというのに、障害者手帳を更新しなければならないという情けなさ!俺のどこが「障害者」やねん、ええ加減にせえ!しかし、ここでヤケをおこして辞めてしまうと大変です。長女の大学進学、二女の高校受験を控えていますから、薄給とはいえうかつに手放せません。職が決まるまでは。
さて、どうしたものか。自分に何ができて、何ができないのか。足が治る見込みはあるのか、もし治らないとしたら、不自由な足でどんな仕事をするべきなのか。何とか現状打破を!と思いつつ、パソコンに向かう日々が続いています。
そう、私のプロフィールは、とんでもなく現在進行形なのです。亡くなった祖母はよく言ったものです。
「人生はいばらの道を行くがごとし」
ああ、ばあちゃんの言うた通りやなあ、と他人事みたいに言っている場合でありません。何とかしなければ。本当に何とかしなければ。下着メーカーを辞めた時の退職金が底をつき、生活費が足りなくなってきています。そんなことは知らず、どんどん育つ娘たち。
さて、この凹凸人生にどう折り合いをつけたものでしょうか。苦難の道はまだまだ続きます……
長いプロフィールをお読みいただきありがとうございました。苦しかった交通事故も精神病も乗り越えてきた自分ですから。本番はこれからです。
2017年11月5日日曜日、我が長女18歳の誕生日に。どうまわり由紀夫
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というわけで始めた当サイト。何度もタイトルを変更し、本日(2018年7月5日木曜日)日本に要らぬもの五選として再スタートを切りました。今までにどんなタイトルだったかと申しますと、
- 痩せました通信
- 痩せ問答
- 便秘歴50年の私
- 衣食満ち足りて後
- 萬ノ理【よろずのことわり】
・・・とまあ、いろいろ考えては変更を繰り返してきました。メニューに表示されていない「その他」カテゴリーの記事はすべて上記5のときに書いたものです。社会に対する不満・疑問のすべてを書こう!と意気込んで始めたものの、すべてに精通するなどは不可能でして、身の程知らずもいいところ。書いていても楽しくなくなり、これでは長続きしないと思い、継続を断念しました。
しかし、とにかく何か書きたい。そこで、主題を絞ることにしたのです。厳選したのが、トップページのメニューにある5つです。
- 贅肉
- 娯楽
- 年中無休
- 自動販売機
- 坊主丸儲け
象徴的単語は、美しいけど意味不明。ずばり言いあらわせば、わかりやすいが下品。さてどうしたものかと考えあぐね、とにかく船出しようと上記5つに決めたわけです。これらがベストとは思っていませんが、石橋を叩いているだけでは前に進めません。実力以上の試みになることをやや恐れつつも、本日ただいま、あらたな題名を決めて、体裁をととのえた次第です。
妙なプロフィールになってしまいました。ここらで擱筆といたしましょう。
2018年7月5日木曜日 午後
さてさて、また数年経ちました・・・
上記ののち、題名を【よろずのことわり】に戻して、細々と始めました。ときはすでに2022年。かつてスタンリー・キューブリック監督が描いた『2001年宇宙の旅』『2010年』などの時間も越え、21世紀は半ばへと向かいつつあります。ロシアが始めた侵略戦争はまだ続いており、第三次大戦の危機すら叫ばれる昨今です。
インターネット時代になってから、とにかく無駄な情報が増えましたね。かつてなら新聞・雑誌が取り上げもしなかった個人的なぼやき・つぶやき・罵詈雑言の類もwebはもれなくすくい上げ、拾い集めて記事にしてしまう。新聞を読む人が減った今、インターネットは重要情報源を世界中に供給し、真偽のほどもあいまいな記事をばらまき続けています。そしてこれらを読んで、なんとなく世の中がわかったような気になる私たち大衆。<衆愚>という言葉の通り、大衆の頭脳の劣化は着実に進んでいるのが現状です。
こんな時代に何をすればいいのだろう。ただ黙っているだけではダメだ、自分も意見を言わなければ… しかし、無名の自分が声を上げてもむなしいだけでしょう。かといって、何も言わず死ぬのはイヤだ。何かしよう。何かしよう。そう考え続けた結果、やはり自分はこの【よろずのことわり】を続けるのが一番いいのではないか、との結論に達しました。誰も読んでいなくとも、ここで言論の練習をしよう。いきなり場を与えられてもできないのだから、今から少しずつ慣らしていく必要があるだろう。
…というわけで、当サイトで扱う主題についていろいろと検討した結果、次の通りにすることに決めました。
・世代間の断絶
・言葉の商品化(母語の崩壊)
・下積み軽視と成果偏重主義
・公共精神の衰退
・市場主義の弊害をさまざまな角度から論ずる
・酒をはじめとする依存症について
・職業とは何か
・民主主義とは何か
・日本人の島国根性
・テレビが垂れ流す害毒を問う
…以上の10項目に絞り、これら以外は扱わないことにしました。まったくどうでもいいようなことも何度か取り上げましたが、そういうことは今後一切しなようにします。
こんな努力も、プーチンが核のボタンを押せばすべて無駄になりますが、最終戦争だけは回避できるという前提に立って、言論の準備をすすめるしかありません。ますます強大化する隣国・中国は、やがて我が国を吞み込んでしまうかもしれません。日本はもはや冬の時代に入っています。かつての ”臥薪嘗胆” どころではない、苦しい忍耐の時代が始まると思いますが、次世代の人材が育つまではガマンするしかありますまい。ここ数日の、岸田政権の迷走した人事などを例に挙げるまでもなく、劣化した祖国の現実を感じ、それを自分たちの問題と受け止めて、22世紀の日本のために立ち上がらなければなりません。私の本業は老人介護ですが、厳しい実務と並行して、言論活動を続けていきます。ゆでガエル現象がますます進む祖国日本を救うのは自分である、と、異常なほど過大な役割を自らに与えて、この川崎市のあばら家から言葉を発信し続けていこうと思います。
2022年11月9日水曜日