うつ病は、誇り高き持病です
由紀夫 「悩むのは賢者である証拠、馬鹿は悩まない。ずいぶん堅牢な城を心に築いておられるようですね。さしあたり、この私にお手伝いできそうなことがあるようには思えませんが」
悩む人 「28歳でうつ病を発症しまして、丸2年になります。こんなダメ人間は死ぬ他ないと絶望の底にいたのですが、母からいろいろと励まされて、発想を変えるように努力したんです。結果、執拗に自分を責め立てるようなことはなくなりました。ただ最近は、自分が誇りに思っていることの根拠が薄弱な気もしまして、これでいいんだろうか、との不安もあります」
由紀夫 「精神病者は、とかく垣根を作りたがるものですね、自分と他人との間に。あなたの場合がまさにそれです。おそらく、誰も自分をわかってくれない➡わからなくていいから、そっとしておいてほしい➡自分は精神が気高いが故に、凡庸な他者とは交われない という具合に、周囲に溝を掘っていったのでしょう。そこを埋めていく努力が必要です。観念的にではなく、より実践的にね」
悩む人 「とんでもない誤解かもしれないのですけど、僕は時々、周囲が大馬鹿者に見えることがあります」
由紀夫 「自分がそうだと思える時もあるのではないですか」
悩む人 「おっしゃる通りです。自分が馬鹿➡周囲が馬鹿➡自分➡周囲 という風に、交互に波が襲ってくるんです。これがいつか、自分も周囲もみんな馬鹿、となれば、この時こそいよいよ自分も終わりかな、と」
由紀夫 「自分だけを責めている分にはいいですが、他者もとなれば、最悪、秋葉原の無差別殺人の如く、自分含め皆消えてしまえと自暴自棄になりかねません。このような存在は有害でしかなく、誰ひとり得をしません。今のうちに芽をつんでおく必要がありますね。自分でそう思いませんか」
悩む人 「思います。比較的冷静な状態で考えると、怖くなりますね。でも、心には周期みたいなものがありまして、その、いい時と悪い時の差がけっこう激しいですから、自分でもコントロールが難しくて困ってしまいます」
由紀夫 「認識の誤りについて自覚があるのなら、最初の段階は越えられそうですね。精神病者を神の如く崇め奉ったという妙な時代があったようですが、医療の手が必要な人間を高みに引き上げるのもおかしな話ですよ。病気やケガは治すために努力しなければなりません。気高かろうが美しかろうが、病は病。体調管理はすべての基本ですから」
悩む人 「でも、何も考えていない連中を見ていると、こんな奴らといっしょにされてたまるか、という気にはなりますね」
由紀夫 「どういう人たちを指して言ってるのかわかりませんが、彼らが何も考えていないと、なぜあなたにわかるのでしょう。顔に書いてあるわけでもありますまいに」
悩む人 「愚かな言動から推察できます」
由紀夫 「愚かかどうか、ほんの通りすがり程度の希薄な関係しかない者を推察してもわからないでしょう。彼らがあなたに偏見を抱いているとしても、同じものをあなたも彼らに向けているわけです。精神が下降気味の時は難しいと思いますが、今は比較的調子が良さそうですから、他人への理解度を高めるのにいい機会です。どうです、そういう心境にはなれませんか」
悩む人 「まわりが皆愚かではない、と理解しようと努めます」
由紀夫 「まあ、心の負担にならない程度に努力してみてくださいな。さて、少々先を急ぎましょうか。あなたには、入り口で足踏みしてもらっては困るのです。あなたたち母子は、根本的な誤りに気付いていません。それを正さないことには、これからの生活が楽しくないものになるでしょう。つまらない毎日でいいということなら話は別ですがね。まさかそんな気持ちではありますまい」
悩む人 「僕はまだ30歳ですから、できればいい人をみつけて家庭を持ちたいですし、日々をもっと充実させたいとも考えています」
由紀夫 「人並みの暮らしがしたいと」
悩む人 「そういうのではなく、僕にも幸福を得る権利があると思うので」
由紀夫 「家庭を持つのが人並みでないなら、どういうのが人並みの暮らしなのでしょうね。他者と距離を保とうという悪しき思考習慣が、まだ抜けていないようです。まあ、徐々に世間並みにシフトしていけばいいですよ。ところで、あなたたち母子の誤りを指摘しなければなりません。何のことだか想像はつきますか」
悩む人 「てことは、意外な事実ですね。僕には思いも及ばないような」
由紀夫 「そう意外でもないのですが、今のあなたには驚きの、と申しますか、不快感を伴う内容かもしれないですね。まだ30歳だから気にしないでしょうが、ひとつ尋ねましょう。血圧・血糖値・中性脂肪・γ-gtpのうち、ひとつでも気にしている数値はありますか」
悩む人 「ないです。僕はお酒もタバコもやりませんし、食べ物の好き嫌いはないし」
由紀夫 「そうだそうだ、先に確認しておくのを忘れていました。私の指示通り、精神科のとんぷくを持参しましたね」
悩む人 「ええ、いちおう、ここに。何に使うんだかわからなかったけど、とりあえず持ってきました」
由紀夫 「薬は服用するためにあります。いつでも飲めるよう、ここに、そう、そのあたりに置いといてください。水はこれを使って」
悩む人 「お気遣い感謝します。でも、何で」
由紀夫 「私の話を聞いて不快になる可能性があると考えたからですよ。ああ、決して脅かすわけではないのですがね。さんざん期待させて、何だよこの程度か、と後で怒られるかもしれません。そうなる方がいいとも言えるし、よくないとも言えます。とにかくひとつめの誤りについて。血圧がいつも高い、血糖値がいつも高い、中性脂肪がいつも多い、γ-gtpがいつも高い等々、或る程度の年齢を越せば、こういうことがよく見られるようになります。このような数値の悪化は、風邪をひいて熱が上がるのとは根本的に違います。生活習慣の誤りから起きた数値の悪化は、生活習慣病を測る重要な指標です。何が言いたいかといえばですね、食べ過ぎを続けて糖尿病になったのと同様、悩み過ぎを続けたら精神病になるということですよ。心は目に見えないからといって、肉体と違うメカニズムで動くと考えると、今のあなたのようなことになるというわけです。悪しき生活習慣によって肉体が弱るのですから、心にも同じことが起きると考えて何か不都合がありましょうか。あなたのように、悩むのを高尚な行為と勘違いしている人は、部屋に何十時間閉じ籠っていてもそれを正当化するでしょう。高尚な行為を低俗な他人にとがめられて改めるはずがありません。ここにあなたたち母子のとんでもない思い違いがあります。精神科医がどういうか知りませんが、生活を改善しない限り、うつは完治しませんよ、絶対にね。あなたが高尚なことに耽っている間に、世の中はどんどん先に進みます。多少なりとも世間に貢献したい気があるのなら、誰も評価しない自己満足の世界との関係を断たなければなりません。社会との接点が欲しくはないのでしょうか」
悩む人 「孤立無援はゴメンこうむりたいです。僕は社会的な存在ですので」
由紀夫 「よろしい。それからもうひとつ。あなたの話を聞いていると、うつ病を持病の如く諦めている心境を感じます。国に難病指定された不治の病でなければ、必ず治るのですよ。それが医者の仕事なのですからね。ただ、精神病というものは、患者の意思ひとつでどっちに転ぶかわからない曖昧な病気です。投薬治療は症状を抑えるだけ、カウンセリング療法は気を紛らせてくれるだけです。患者自身が変わらない限り、病気が隠れることはあっても治りはしないでしょう。いつもうつむいている自分を、前を向いて突き進むポジティブな男に改造したくないのでしょうか。弱く脆いままで終わっていいのですか」
悩む人 「できることなら、積極的な人間に変わりたいという気はあります。でも、僕は生まれつき内向的でしたから、ここは変えられないんじゃないかとも思ったりします」
由紀夫 「殺人犯ですら改心するのですよ。内向的な性格などどうにでもなりましょう。だいいち、世の中すべてが明るい人間なわけがありません。ちょっと考えればわかるでしょう。塞いでいる人は全国にまんべんなくいますよ。トップセールスマンと評価されているのは、明るい外交的なタイプばかりではないのです。あなたのような性格で売り上げを伸ばしている敏腕セールスなど珍しくもありません。自分はこういうタイプ、と決めつけるのはやめにして、きょうから自分の新しい可能性を探すことを始めてください。あなたは何もない薄っぺらな人ではありますまい。古い座布団だって、叩けば埃ぐらいは出ます。まだ30歳なのですよ。少なくともあと半世紀は生きられるのに今から自分を型に嵌め込むなんて、こんなにもったいないことはないです。食品で言えば、賞味期限が切れる半世紀前に廃棄してしまうようなものでしょうね。食べられるのに生ゴミ扱いしていいはずがないのです。いいですか、悪しき生活態度を改め、慢性化しそうな精神病を少しずつ治して、蝉がカラを脱ぎ捨てるかの如く、新しい自分を外気にさらすことですね」
悩む人 「僕にだって、生きる権利がありますからね」
由紀夫 「そこも思い違いですね。生きる権利、とはずいぶん言い古された言葉ですが、それは生存の権利に過ぎません。良く生きる、と言ったのはソクラテスですが、これは権利ではなく義務なのですよ。有用な人材として社会に地歩を固めるのは、社会人の義務であって、これを権利ととらえるから世の中がおかしくなるのです。ひとりひとりが正しい人格者として義務を果たすことで、世の中は少しずつ良くなっていくものですから。何もなしえていないうちに権利を主張してはなりません。常に義務が先行するということ、忘れてはなりませんよ」
悩む人 「生きる義務、ですか。そう言われると、何だか重荷を背負ったみたいで、足取りが」
由紀夫 「気分はどうです。とんぷくは必要ですか」
悩む人 「とりあえず、飲まなくてもいけそうです」
由紀夫 「ではこんなものは捨てますよ」
悩む人 「ああ、全部流してしまって」
由紀夫 「向精神薬はあるのでしょう。朝昼晩と飲む分は」
悩む人 「ええ。家にありますが」
由紀夫 「それで充分ですよ。不安なら、帰りに駄菓子屋でラムネでも買っていきなさいな」
悩む人 「プラシーボってやつですね」
由紀夫 「自分を騙せるようになった方がいい。そうすれば、他人に打ち勝つなんて造作ないですから」
悩む人 「なんとなく、そんな気になってきましたが」
由紀夫 「よろしい。大進歩です」
悩む人 「あの、もしよろしければ、家にある薬、預かっていただけませんか。今度お送りしますので」
由紀夫 「そこまでは言ってませんが」
悩む人 「やるなら徹底的に」
由紀夫 「脱皮が始まったようですね」
(了)