醜い日本人が増えた。
【朝晩、通勤電車で見る乗客たち、道路を行きかう通行人の群れ。どの人もみな、格好悪いというか、醜いというか、とにかく見ていてイライラしてしまいます。私たち日本人って、こんなに醜い民族だったでしょうか。昔は違ったとしたら、いつから、何がきっかけでこうなったのでしょう】
問う人 「自分も日本人のクセに、『どうして日本人は云々』と日本人批判をしたがる輩がいますね。そんな連中と同類に思われたくはないのですが・・・」
知る人 「どうしても言わずにはおれん、という心境になったのだね」
問う人 「はい、おっしゃる通りで」
知る人 「電車の乗客も道路の通行人も、君からすれば素性のわからぬ他人に過ぎぬ。当然、外見で判断せざるを得ないね」
問う人 「ええ、まあ、そうです。でも、見るからにアホ、いえ、頭の悪そうな、ううん、違うな、まあ、言ってみればですね、外国人に対して、これが私たち日本人ですって堂々と見せるのが恥ずかしいような・・・」
知る人 「電車の乗客は、ほとんどがスマホとにらめっこだろう。通行人もそうだな。歩きスマホはやめようなんて世間で言われても、どこ吹く風だ」
問う人 「確かに。でも、スマホのない頃でも、タブロイド紙やスポーツ新聞を黙々と読んでる連中はいました。行為としては、スマホも新聞も大差ありませんでしょう。でも、何か違うんです」
知る人 「何もせず普通に座ってる人も含めて言ってるのかね」
問う人 「そうです。全体的にみて、醜い人が多い、と」
知る人 「なるほど。それはだな、何も今に始まったことではない。最近とみに目障りに思えるのは、スマホ人口が増えたからだろうな。あれだけ多くの者が同じ行為に没頭していれば、どうしても目立つからね」
問う人 「スマホのなかった時代からの延長線上にある、とのお考えですか」
知る人 「そうだ。昔から言われていることだから聞き飽きているかもしれんが、自分さえよければいいという誤った個人主義、いや、ここで個人主義などと高尚な言葉を使うと漱石先生に叱られるかな。常に自分優先、他人の存在などどうでもいいという人間が我が国には実に多い。昨今激増している観光客を見てみるがいい。欧米人だろうがアジア人だろうが、どの人々もみな、悪しき日本流に染まっている。日本的利己主義を楽しんでいるかのようだ。郷に入りては郷に従え、の悪い見本だな」
問う人 「そうですね。観光客の興味の対象は日本であって、日本人ではないですものね」
知る人 「そう。公共の精神の根付いた北欧あたりから来た人々など、さぞかし奇異の眼で私たちを観察して帰国することだろう」
問う人 「公共の精神、ですか。死語ですよねえ、それ」
知る人 「まだ死んではおらぬが、まあ、虫の息といったところだろうな。いいかね、醜い日本人が増えた理由をひとことで言えばだな、彼らはね、背景としての自己を意識できていないのだよ」
問う人 「背景としての自己、と言いますと」
知る人 「私たちはみな、おおやけの存在だ。外出すれば電車に乗るし、食堂でメシも食う。街の景観とはつまり、建物や乗り物だけではなく、通行人も乗客も、ベンチに腰掛けている人もみな含めて、視界に納まり得るすべてのモノによって構成されている。私たちはみな等しく、町の景観の構成部分のひとつ、景観の一部なのだ。私たちは日本人だが、それだけではない、私たちひとりひとりが、すなわち【日本】そのものなのだよ。他人の眼があるからではなく、自分は日本の一部分なのだという自覚が必要なのだ。自分こそが日本なのである、という強烈な自負を持つ日本人が、おそらくほとんどいないのだな。このままいけば、日本はさらに醜い姿を世界に向けてさらし続けることになろう」
問う人 「そうなる前に、なんとかできないでしょうか」
知る人 「景観意識に目覚めた日本人の数が莫大に増えぬことには、どうにもなるまい。絶望的な言い方に聞こえたかもしれぬが、どんな偉業もひとりの一歩から始まったのだ。わかるかね」
問う人 「はい」
知る人 「わかったのなら、誰よりもまず、君がやりなさい」
(了)
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