お国訛りが消えてゆく
【仕事で地方へ出張するたびに感じるのですが、方言を使う人が減りましたね。こうして、いつか画一的になって、どこに行っても東京と同じ言葉しか聞かれなくなるのでしょうか。寂しい限りです】
知る人「仕事で行く地方というのは、どのあたりかね」
問う人「かなり広範囲なんです。東北・北陸・甲信越・北関東・中部あたりまでですね」
知る人「どこでも同じように感じたかね、それとも地域差があったのかな」
問う人「地域差はありますね。同じ東北でも、盛岡や八戸では訛りをよく耳にしましたが、仙台ではさっぱりで」
知る人「中央にいるとわからんが、仙台は大都市だからな。私の知人でね、最近はじめて仙台に行った者がいて、駅前のでかさに驚いたそうだ。遠景に城が見えるようなのどかな町をイメージしてたらしいのだが、君もこのクチかね」
問う人「はあ、似たようなものですね」
知る人「東京から100キロ圏内あたりで比較するとおもしろいね。高崎・宇都宮・水戸・三島・甲府など、どこもあまり方言が聞かれないね。宇都宮は栃木訛りまるだしの人が多いが、他は東京と大きな違いは無い。まあ、方言の研究でメシ食ってる学者もいるくらいだから、ここで中途半端な意見は謹みたいがね、地方色豊かな町に行きたければ、できるだけ奥地に入り込む必要があろうね」
問う人「特に若者ですよね、お国訛りを使わないのは」
知る人「傾向としてはそうだろうな。私は45年前、岡山に住んでいたのだが、つい最近、岡山人と喋ってみて驚いたよ。ほとんど訛っていないのだ。昔は でーれー・ぼっけー・あんごーなど、当たり前に使っていたものだが、今の岡山人は昔ほど使わんようだなあ」
問う人「やはり、都会人への憧れでしょうか」
知る人「はっきりそうと意識しているか否かは別として、若者の心の底にはそんなものがあるだろうね。テレビをはじめとして、メディアの影響だな。それと、地方出身者でも、東京に出ると方言を使わなくなるだろう。訛りを売りにしようとする以外、必ず発音などを矯正される」
問う人「そうなんですよね。有名人の出身地を知ってびっくりすることがよくあります。え、この人イナカの出だったのか、って」
知る人「全国共通の日本語は、確かにわかりやすいが、個性は消える。そういうのは、全国版のニュースを読むアナウンサーだけでじゅうぶんだな。地方局はその土地の話し方でいいのだよ。電話で天気予報が聞けるだろう。あれもかつては地方色があった。強烈に覚えているのは兵庫県の天気予報だな。文字にすればなんてことはないのだが、発音・抑揚がすごかった。神戸海洋気象台が発表していたのだがね、実に愉快だったよ。同じころ、大阪府の天気予報も聞いてみたが、残念ながら共通語だった。兵庫魂をみた思いだったなあ」
問う人「そうするには、何が必要でしょうね」
知る人「訛りがカッコ悪いという認識を改めねばならぬ。そうするには、まあ、いろいろ工夫がいるだろうが、例えば国会答弁だな。地方議員が共通語で答弁しているだろう。以前、タレント議員の西川きよし氏が大阪弁で質問したところ、誰かが大阪弁でヤジを飛ばしていた。あのような輩が地方色を消してしまうのだな。お国訛りをもっともっとガンガン口にすれば、国民の意識は変わると思うがね」
問う人「若者の傾向としては、地元から出ない者が増えてますよね。昔ほど上京志向ではないとおもうのですが、それが方言の拡大や浸透に結びつかないのはなぜでしょうね」
知る人「人間性の不足だろうな。彼らは生活というものを重視していない。なんとなく生きているのだな。言葉など、どうでもいいのだよ。地方人らしく生きる理由が見当たらないのだ。彼らにとって言葉とは、通じればいいのであって、どんな言い方をするべきかなど、まったく問題ではないのだろうな。今の日本は何をするにも目的や目標がない。行動原理が弱いのだよ。地方の若者は、たまたま地方に生まれ育ったのであって、それはその土地の言葉を使う理由にはならない。地元の発展に寄与する義務もない。自分探しだの何だのと言っては、すぐどこかへフラリと出かけてしまう。地元意識というのは、その大地や空気とわかちがたく結びついているものだ。たんぽぽの種みたいにフワフワさまよっている彼らにそんなものはない」
問う人「誇り、ですよね。地方人の誇り」
知る人「そうだな。言葉は文化だ。風俗ではない。そこに何の信念もないということは、風俗のレベルでしか言葉を認識できていないということだ。亡国につながる危険な傾向だよ。ふるさとをくまなく歩きまわり、さまざまな人と話し、歴史をつくってきた先人たちのことを知る努力をさせねばならぬ。これは学校教育の役割だな」
問う人「学校にそこまでできるでしょうか」
知る人「根本的な教育改革が必要なのだ。方言の問題にはとどまらぬ」
(了)
1973字。60分。