歩きスマホの何が悪いのか
【スマートフォンを見ながら歩く人が、今や至る所にいますね。批判する声も多いものの、これだけ目立つと、いったい何がどう悪いのかわからなくなってしまいます。こういう時代、ということで容認せざるを得ないのでしょうか】
知る人「君、ここへは電車できたのかね」
問う人「はい」
知る人「車内にかなりいただろう、スマホに没頭している連中が」
問う人「そうなんですよ。僕は吊り革持って立ってたんですけど、前の座席は七人掛けで、スマホみてないのは一人だけでした」
知る人「ケータイ、と言えば、かつては携帯電話のことだったが、今では携帯情報機器といった意味に使われているようだね。どんな操作も手のひらの上で済ませることが可能になった。まあ、便利になったものだな」
問う人「ものごとは常に表裏一体ですよね。よくなれば一方で悪くなることもある」
知る人「それも言い方次第で諦観のあらわれと解釈されるね。いいこともあれば、悪いこともあるという、誰も反論のしようのないところに落ち着きそうだな。君の言いたいのは、そんなことではなかろう」
問う人「歩いてスマホを見ている人は、前をよく確認せず歩いているから、通行の妨げになる・・・確かにそうですが、では、前をしっかり確認しつつ歩きスマホしている分にはいいのか。人通りの多い場所では邪魔になるけど、ほとんど人がいなければそうはならないではないか。結局のところ、<マナーを守りましょう>といったありきたりの結論に落ち着いて終わりではないのか。そもそもこれは、議論に値するほど重い主題なのか・・・とまあ、いろいろ考えているうちに、何が何だか分からなくなってきたんです」
知る人「たかが○○、されど○○、という言い方があるね。これもそのひとつだろうな。マナーのレベルにとどめてしまうこともできるし、深耕・拡大解釈して社会問題として論じることもできる。何せああ言えばこう言う式の風潮に支配されているからな、世の中フリートーキングだらけで、何が社会問題の核心なのかがわからないような雑多・混沌が当たり前になってしまっている。君自身はどうだね、これを真剣に議論したいのかね」
問う人「議論、というか、まあ、いい加減に片づけてしまうのはいやですね。何らかの結論は出したいです」
知る人「歩いていようが、立ち止まっていようが、または座っているにしてもだな、スマホを操作していることに変わりはない。これを風景としてとらえては議論にならぬから、まず、この人たちはスマホで何をしているのかを明らかにしておこう。是非を問うのはそこからでよかろう。君もスマホを日常的に使っているはずだが」
問う人「ええ。僕の場合、腕時計をするのがいやで、あの、すぐ手首がかゆくなるんですね。それで、スマホの第一の用途として、時計代わりということがあります。次に、ニュース情報の収集。家計節約のため、新聞とってないんです。あと、読書が趣味ですので、古本の購入にはよく利用しますね。電話以外の用途としては、そんなところかな」
知る人「まあ、用途は人それぞれだからな、何に使おうがもちろん自由だ。だが、歩きながら操作せねばならぬほど、緊急の用向きがあるかね。もちろんあるだろう。入院中の老親の容態が急変したとか、顧客名簿の流出が発覚して即手を打たねばならぬとか、公私に関わらず、緊急事態というものはある。まあ、こんなときはそれで頭がいっぱいだから、周囲への配慮がおろそかになりがちだ。わが身にそれが起こった時などを考慮すれば、大目に見てあげていい事例だと私は思う。君はどう思うね」
問う人「同感です。問題は、そんな緊急事例がひんぱんにあるわけではない、ってことですよね」
知る人「そうだな。表情でわかる場合も多いがね、例えばゲームに興じている、動画に見入っている等々、本来は自宅などの私的空間でやるべきことを歩きながらやっている連中の何と多いことか。あとは、ネットサーフィンなどと小奇麗なカタカナ語で言われているがね、要するに意味のないダラダラ利用だな。音楽を聴いているのもよく見かけるが、これも路上ですることではあるまい」
問う人「つまり、公的な場所に私的行為を持ち込んだ、と言えますか」
知る人「わかりやすく言えばそうだな。電車の中で化粧する女性に対する批判の根にあるのもそれだろう。そんなことは家で済ませてこい、と言いたいわけだ。まあ、まだまだ事例はあろうがね、ここらでまとめておこう。他人の邪魔になろうがなるまいが、公的な場所で私的なことをするのはよくないというのが第一の結論だ。おそらく、自宅や喫茶店など、オフィス以外で働ける形態が社会に浸透してきたのと、ほぼ軌を一にしていると言ってもよいかもしれぬ。公私の区別がきわめてあいまいになり、どこにいようが自分は自分、という妙な個人主義が蔓延している。自由というものを突き詰めていくとどうなるか、日本はその実験中の国なのだろうな」
問う人「自由の根底にあるのは、責任でしょう」
知る人「そうだな。だが、今のような匿名社会では、無制限の自由が定着する危険性が高い。言い逃げ、やり逃げだな。戦前の国家主義があまりに強烈だったから、その反省からスタートした戦後社会は個人を尊重する方向に舵を切った。これは正しかったのだが、経済発展の結果、個人の自由にも値段がついてしまった。一日二十四時間、好きなところを切り取って換金できる社会の誕生だ。こうなると公共性などというものは吹き飛ばされ、公衆道徳は崩壊する。市場主義者にとって、道徳は障害でしかないからね。金の円滑な流通を、道徳が妨げているというわけだな。つまりだな、日常の隅々にまで市場主義が浸透し切ったらどんな世の中になるのか、その一事例が歩きスマホだと言ってよかろう。市場主義者たちの長年の<努力>の積み重ねによる現象だから、いっときの流行りではない。テレビも歩きながら見られるようになったが、これはそうなってほしいというユーザー側の要望の結果ではない。市場主義者たちによる一連の消費者誘導の成果だ。彼ら市場主義者たちにも生活があり、他人に邪魔されたくない私的空間や時間があるはずだが、結果として自らの空間・時間も侵害される世の中を作ってしまった。こうなればもう誰にも止められぬ」
問う人「行きつくところまで行く、ということですか」
知る人「公私の極端な交錯が深刻な社会問題を次々と起こさせるようになって、ようやく鈍い鈍いブレーキが作動し始めるだろうな。過去の公害問題でも何でもそうだが、騒がれなければどんどん悪化する。ことが日常の当たり前の行為なだけに、社会の覚醒は遅いだろうね」
問う人「公私の区別のあいまいな、とてもだらしない国になってしまいますね」
知る人「もうかなりそうなっているがね、まだまだ加速していくだろう。だがね、歩きスマホの根本的病巣は、公私の区別の崩壊ではない。通勤・通学・顧客から顧客への移動時間など、頭を使うか休めるかどちらかにすべき時間に、彼ら歩きスマホ人種は不要な情報を頭に注ぎ込んでいる。これを繰り返すとどうなるか。自分の頭で考えようとしない、骨の髄まで他力本願の無主体的日本人が育ってしまうのだ。頭を使わなければ楽だからな。遊んだりムダな情報で脳裡を満たしたりしていれば、直面しているイヤな現実や、将来起こり得る厳しい事態から、いつまでも目を背けていられる。この繰り返しの結果、イザというときに何もしない、有事に全く役に立たない日本人が急増していくのだよ。日本国民の多くが、消費者という言葉で分類できる程度の、為政者・権力者にとっていくらでも操作可能な駒という立場に納まっていく。何に対しても、『へえ、そうなんですか』としか反応しない、無気力人種が過半数を占める国、それが近未来の我が国だ。テレビのバラエティ番組などで、何かあるたびにうしろで『へえー』と声を上げている連中がいるだろう、日本はやがてああいう連中が大多数になるのだよ。祖先たち、大先輩たちが必死で築き上げた日本国が、世界に類のない無気力国家として、国際的に疎まれる時代がやがてくるだろう。自分の頭で考えぬ人間が増えるということは、一部のエリートの暴走をいともたやすく許すことにもなる。そのころになれば、果たして<国家>の体を成しているか否かすら心もとないね。こうして我が国は歴史から消えるのだ」
問う人「そうならないために、今何をするべきなのでしょうか」
知る人「大衆をとらえるような、いわゆる<マス>の発想では結局何もできぬ。少人数でいいから、確実に他人に良い影響を与えていけるような仕事を始めることだ。熟慮の段階は終わった。即行動せよ。誤りは前進しつつ修正すればよい。悪しき市場主義と闘え。必ず敵の大将の首をとるのだ」
(了)
3576字。120分。