人生は、一本の道である
【いくつかの職を経て、特別養護老人ホームで介護士として働いています。50歳、妻と娘二人の四人家族です。生活は苦しいですが、充実しています。今までの職業体験は何だったのでしょう。早く今の職に就くべきだったと少し悔やまれます】
知る人「介護を始めるまでは、おもに何をしていたのかな」
問う人「営業です。食品と、下着の会社で。百貨店回りが多かったですね」
知る人「どんな会社か知らぬが少なくとも、介護士の給料よりは良かっただろう」
問う人「ええ、おっしゃる通りで。4割減ですね、だいたい」
知る人「娘は」
問う人「上が大学生、下が高校生です」
知る人「どちらもお金がかかるだろう。奥さんは何を」
問う人「地方公務員の資格を持っていまして、市役所の正職員なんです。僕よりずっと稼いでますよ」
知る人「転職に当たって、奥さんから反対はされなかったのかね」
問う人「あなたがそれでいいなら、って」
知る人「いい奥さんだな。介護の資格は何か取得したのかな」
問う人「はい、初任者研修と、実務者研修を。来春で実務経験丸三年ですから、1月に介護福祉士の国家試験を受けます」
知る人「営業から介護へ。かなり異質の転職だが、きっかけは」
問う人「実は、下着の会社にいたとき、40歳過ぎてようやく課長に昇格したんです。ところが、やってみるとこれが、もう全然ダメ。部長からはおおぜいの前で罵倒され、とうとうおかしくなったんです」
知る人「鬱か」
問う人「ええ。精神科医から60日間の休職を勧められまして、復帰後は物流課で返品整理などの雑務をやらされていました。ところが、物流部門まるごと別会社化されることになり、それに際して、年収の提示があったんですね。それまでは520万もらっていたんですが、120万ダウンの400万。これが嫌なら他に行け、と」
知る人「それで、他を探したというわけか。そこから介護に至るまで、どのような道をたどったのかね」
問う人「最初は営業職に未練があり、その線で探したんです。でも、40代後半で、管理職も務まらない男に、得意先を任せてくれる企業なんてありません。まあ、正確には、あったんですけど、歩合給の不動産屋とか、とてもできそうにないものばかりで」
知る人「なるほど。それで、比較的採用の門戸の広い介護業界に目を付けたわけだ」
問う人「その通りで。幸い、すぐ見つかりましてね。老健です。ここで2年やって、この春、特養に移ったんです」
知る人「老健から特養に移った理由は」
問う人「三つあります。まず、利用者の平均年齢が若いんです。なかには僕より年下もいたりして。80代、90代の人たちのお世話の方が楽しいので。次に、利用者の入れ替えですね。老健って、基本は三か月なんです。すぐ他の施設に移るか、自宅に帰っていく。長いお付き合いができないんです。これも嫌でした。最後に、看護師ですね。ろくに働かず、集まって利用者の悪口ばかり言っている女看護師がいっぱいいて、そのくせ、介護士を上から見下ろしますから、自分は動かず、指示ばかりするんですよ。何でこんな連中の言うこと聞かなきゃならないのか、って考えたら、馬鹿馬鹿しくなってきて」
知る人「なるほど。三番目が一番の理由のようにも思えるが、まあ、ここでそれは問わぬことにしよう。それで、今の君の気持としては、こんなにやりがいのある仕事に、なぜもっと早く巡り合えなかったんだろう、ということだね」
問う人「そうなんです。介護の必要性は、もうずっと以前から叫ばれていましたよね。どうしてそれに耳を貸さなかったのかな、って」
知る人「まあ、関心がなかったのだから、仕方なかろう。職業選択というのは、じっくり下調べして情報武装して、まさに満を持して職にのぞむ・・・という方が稀だろうな。だいたい、ああいうのどうかなあ、よさそうだなあ、やってみようかなあ、ぐらいの感覚で行動に出るものだ。もちろん、待遇面の情報は集めるだろうがね」
問う人「出会いって、結局、運なんでしょうかねえ」
知る人「計画的な出会いというのはないだろうから、まあ、運と言えば運だな。それでいいではないか。何を知りたいのかね」
問う人「はあ、あの、あれこれさ迷うようにして、いろいろ経験して、ようやく介護士になった。これは、運命なのかどうか、ってことです」
知る人「どこかの坊主が、WEB上で人生相談だか何だか知らぬが、他人の悩みを聞いてやっているそうだ。そういうのに投稿してみたらよかろう。悟りを開いたなどと大きな顔をしている奴らだから、さぞかし、いいアドバイスがもらえると思うが」
問う人「はあ、そうですか」
知る人「ひとつ言っておくがね、君はあっちこっちにぶつかりつつ、落とし穴にも時々はまりつつ、まさに右往左往して、やっと今の仕事に出会った。これは一見したところ、いくつもの道を歩んできたようにみえるがね、違うのだ。人の一生は一本の道に過ぎぬ。神が定めた、その人なりの ”王道” とでも呼ぶべき道がある。が、それは何せひとつの道だから、退屈なものだ。つい、寄り道したくなる。脇へそれたくなる。他へ目移りする。でも、ある程度の年数を経て、来た道を振り返ってみると、なんのことはない、ずっとひとつだったのだ。移り気な態度が、人生に無駄を生み、迂回しているような錯覚を起こさせていたのだな。そうではない。今までの職業AもBもCも、どれもこれもみな、一つの道の上にあったのだよ。つまり、選択ミスのように見えて、その実、既定路線だったのだな。身もふたもない言い方に聞こえるかもしれぬが、君はそうやって苦労するようにできていたのだ、はじめからね。それこそが君の一本道なのだよ」
問う人「てことは、これでよかったんだ、ってことですか」
知る人「そうだ。後悔しても始まらぬから、そうやって自分を納得させる、というのではなく、君は既定路線を歩いていただけなのだ。これがいわゆる ”さだめ” だよ。介護の仕事は、ずっと昔から、君がたどりつくのを待っていたのだ。だから、迷わず働くがよい」
問う人「ありがとうございます。坊主のアドバイスは、もういらないです」
知る人「けっこうだ」
(了)
2511字。