その怒りを世界に向けよ

【老人介護士です。職場にムカつく女職員がいて、腹が立って仕方がありません。休日でも、こいつのことを思い出すと怒りが収まらなくなるんです。私は決して怒りっぽい方ではないのですが、こいつに対してだけは、どうしようもありません。どうすればいいでしょうか】

 

 

知る人「それは、君より年齢が上の女性かね」

問う人「ええ、そうです。私は55歳で、こいつはもうすぐ還暦ですね」

知る人「その人は、もう長いのかね」

問う人「職歴ですか、ええ。今いるのは特別養護老人ホームですけど、その前は有料老人ホームで働いてたとか。あまり詳しくは知りませんが」

知る人「君の経歴は」

問う人「食品商社に8年、下着メーカーに20年、あとはいろいろで」

知る人「介護を始めてどのくらいかね」

問う人「3年めに入ってます。最初は老健で、この春から今の特養に移りました」

知る人「そのオバサン職員は、君に対してだけ厳しく当たってくるのかな」

問う人「そうなんです。先輩たちに聞くと、新人には必ずイジワルをしていじめるらしいんですね。私のすぐあとに、40代の女性が入ったんですけど、ヤツにいじめられて、1か月で辞めました。先輩たちも、最初はずいぶんやられたそうでして」

知る人「なるほど。そういう輩は、介護業界には、それこそウジャウジャいるであろうな。かつて、介護と言えば、嫌われる職業の筆頭格だった。重労働で、汚れ仕事で、しかも超低所得ときたら、まあ、よほどのわけあり人種でなければその門を叩く気にはなれまい。君の言うババア職員はね、そんな前時代からの生き残りだな。昨今は違うだろう。年少の頃から福祉系を目指していて、その道をまっすぐ進んできた青年たちも増えている。君の職場にも、そんな純・福祉系人材がいるだろう」

問う人「いますいます。高校出て福祉系学校に進み、在学中に社会福祉士と介護福祉士の資格を取得してから、社会に出てきた若い人たちです」

知る人「うん。そういった前向き人種が多数派を形成するまで、まだしばらく時間がかかるだろうな。そのババア職員みたいな前時代からのクズが一掃されるには、君、もう少し辛抱するしかないだろう」

問う人「はあ、そうですか。でも、いつもいつも言われっぱなしで、悔しくて悔しくて。一回ガツン!とやり返してみたいんですけど、どうでしょう。やめといた方がいいですか」

知る人「まあ、ガマンのし過ぎは体に悪いがね、その程度なら耐えるべきだろうな。人をいじめて喜んでるような奴はね、先の展望も何もない。ただ、その場その時心に浮かんだ感情に従っているだけだ。君を育成するつもりで、計画的に鞭を与えているのではない。それに対して君が言い返せば、君も相手と同種の人間だと自ら認めたことになるのではないかね」

問う人「はあ、なるほど。つまり、相手にするな、と」

知る人「そうだ。そんな輩でも、たまに正しいアドバイスもするだろう。そういうときだけ聞いていればいいのだよ。あとは右から左でよい。受け止めるな、流せ。受けるとそれだけで君の怒りに点火することになろう。その昔、首相時代の吉田茂氏のインタビューで、こんなやりとりがあった。

アナ:首相、何か怖いものってありますか。

吉田:(一瞬、考えて)バカが怖いね。

 

・・・君のところのババア職員は、吉田氏の言う ”バカ” よりはるかに低レベル人種に過ぎぬがね、まあ、私の解釈としてはだな、バカの相手をまともにしていると、いつの間にか自分も相手と同類に染まってしまうのだな。もっとも怖いのはこれだよ。もちろん、そいつが周囲に与える負の影響も怖い。バカが増殖するからね。でも、それ以上に怖いのは、君自身のレベルが下がることなのだ。まあ、暴力でも振るわれたのなら別だがね、言葉の弾丸ぐらいであれば、涼しい顔でかわしてやりなさい。それより、もっと広い世界に意識を向けることだな。君が今取り組んでいる老人介護は、ほぼ全世界に共通の大問題だ。どこの国も、遅かれ早かれ、超高齢化時代がやってくる。そのとき、老人問題について、現場に即した実践的知識とノウハウを持っていれば、世界が君を必要とするだろう。中国の覇権主義だけではなく、世界には不穏な動きがあちこちに見られる。これらを打ち砕くには、各国に共通の社会問題と取り組める力が必要なのだ。眼前に迫った生活問題は、軍事的対立などあっさりと超越してしまうであろう。介護はそうやって、世界をつなぐ横串の役目を果たすことができるかもしれぬ。それぐらい重要な職務なのだ。眼前のババアなどにとらわれず、世界を見よ。おのれの使命を自覚するのだ」

(了)

1883字。

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