国語世論調査に思う

【文化庁の発表によると、国語の乱れを気にしない日本人が着実に増加しているのだとか。SNSの普及をその理由に挙げています。言葉は時代と共に変わる。確かにそうですが、このまま変わっていっていいものなのか…】

 

 

知る人「そう古い話ではないが、俵万智氏が ”こだわる” という言葉の使い方に対して違和感を覚えるとどこかに書いていたな」

問う人「そうですね、もともとは否定的な意味で使われていたものですが、最近では『味にとことんこだわった』など、前向きに評価する表現になっています。確かにこれも、乱れの一つですよね」

知る人「難しいところだな。言葉には歴史があり、それをたどっていけば語源に行きつく。そうして検討していけば、本来の意味からそれてしまった言葉というのは、おそらくかなりの数にのぼるだろう。ただ、そこまでやる者はおらぬ。国語審議会などの専門家集団がやるべきことだとは思うが、言葉の数に比して人員が少な過ぎるのか、そういった研究の成果は出てこない。今後もおなじだろう」

問う人「変わっていく母語を、どこまで許せるか、ですね」

知る人「莫大な数の人が四六時中使い続けるものだからね。どこでどう変わっていくかなど、誰にもわからぬし、それに制約を加えるのも不可能だ。言葉遣いが規制されるような社会にはしたくないからね。君はどうするべきと思うね」

問う人「ありきたりの言い方になりますが、できるところから始めるしかないかな、と」

知る人「うん、それはどのあたりのことかな」

問う人「発言力の強い人や、言葉遣いの目立つ立場の人たちですね。こういった人たちが意識して正しい言葉を遣うようにしていけば、少しずつでもいい方向にいくかな、と思うんですが」

知る人「何せ言いっ放しの大放言社会だからな。とりわけ、webには紙媒体のような編集者がおらぬ場合が多い。文章のプロによるチェック機能がないのだから、どんなに非常識でいかがわしい汚染語であっても、容易に公開され、またたく間に拡散してゆく。この勢いを止めるのは不可能だ。それに、何が正しいのか、基準となる母語があいまいである。戦後我が国は、言葉をかけがえのない文化遺産であり、次代へ引き継いでゆかねばならぬ貴重な財産かつ資源であるという点を忘れてしまった。日本人が日本語を話すのは当たり前であり、長年続いてきた言葉が汚染されてゆくなどという危機感はほとんどなかったに違いない。昭和20年代、当時の国語審議会の先頭に立っていた金田一京助氏は、歴史的仮名遣いを改めようとした。今私がこうして使っている現代語に変えようとしたのだが、それに対して、歴史的仮名遣いを断固守ろうとした人たちがいた。評論家の福田恒存氏などは、その急先鋒に立った一人であろう。結局は改革派が勝利したわけだがね。このとき、言葉を変えようとした側も、変えまいとがんばった側も、双方とも母語の未来を思って必死で闘ったのだ。今はどうだ。乱れゆく母語に対して、真剣にそれを憂慮し、学者生命を賭ける、論客としての看板を賭けるといった姿勢の文化人がいるかね。せいぜい、昔のやまとことばを持ち出してはその美しさを強調し、本来の日本語はきれいなんですよ、といったところでお茶を濁すか、憂慮し危機感を煽るばかりで何も行動しないか、新しい言葉をファッションの如くにとらえて歓迎するか。いずれにせよ、言葉の乱れをうまく利用して飯の種にしているに過ぎぬ」

問う人「こうしているうちにも、妙な言葉は使われ続け、さらにおかしなのが生まれては消えていく、或いは成長していくでしょう。もはや手の打ちようがないのでしょうか。さっき言ったような、目立つ人たちにも期待できないとなると」

知る人「期待できぬこともなかろうが、望み薄なのは確かだな。すでに当サイト上で論じたが、今政府が力を入れている ”Go To” なるキャンペーンでは、ついにGo To 商店街まで登場したね。ここまでいくと、もはやお笑いのネタだな。政策の内容を言っているのではないぞ、あくまで名称・呼称のことだ。国家的政策を英語表記し、それに誰も異を唱えぬ。異常としか表現しようのない我が国の今の姿を、金田一京助氏や福田恒存氏、或いは最後まで歴史的仮名遣いを守り通した内田百閒氏などが知れば、嘆き悲しみ、涙の海で溺れ死ぬであろうな。三島由紀夫氏ならば、自民党本部を日本刀で襲撃したかもしれぬ」

問う人「そう言った点から変えていかなきゃダメですね」

知る人「そうだな。政策ほどひんぱんに耳につくものはないからね。先日再選を果たした東京都知事の如く、カタカナ語大好き人種が先頭に立ち続ける限り、安易で無定見な大衆の意識を変えるのは難しいな。母語と政治は切り離して論じたいのだが、為政者の言語感覚が汚染されている現状では、両者ひと揃えで扱わざるを得ぬ。上に立つ者どもの貧しい母語意識をあらためていかねば、SNS上に飛び交ういかがわしい汚染語を批判することもままならぬ。が、文化庁如きが中央政府を批判するなどもってのほかであるから、結局のところ、些末な用語・用法の変化だけを取り上げてニュースにしてもらう以外にないのであろう。正しく美しい母語を駆使できる指導者が育たねば、日本語の乱れは今後も止まらぬであろう。みな、自身の能力を考え、正しい人材の育成のために自分なら何ができるか、どのようなことで貢献できるか、じっくりと検討してほしい。そうして結論が出たら、あとは一歩前へ出る。それだけだ。母語の現状を心から憂慮し、やまとことば数千年の歴史にしみついた汚れを拭い去ることに賭けてみようと決断した勇者よ、少しずつでよい、じわじわと油のように、社会に滲み出てゆくのだ」

(了)

2338字。

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