年賀状を出し続ける、ということ

【今年は、ああ、昨年は、ですね。ええと、暮れに忙しくて、年賀はがき買い忘れたんです。気づいたときには郵便局が閉まっていて、仕方ないからコンビニ行ったら、値段の高いこと高いこと。結局、書かずに新年を迎えてしまいました】

 

知る人「…で、その後どうしたのかね」

問う人「ええ、それでもパラパラと来てましてね。一番お世話になった中学と大学の先生が、お二人揃って喪中だったもので、つい、油断してしまいました」

知る人「来た人には返信したのかな」

問う人「ええ、郵便局が開いたので、安いのを買ってきて、書いて出したところです」

知る人「それで一件落着だろう。ここへ何しに来たのかね」

問う人「はあ、あの、年賀状を書く必要性といいますか、なぜ書くのか、その意味とか意義とかいう点について、お考えを伺いたくて」

知る人「年に一度のご挨拶、と言えば、かつてのテレビCMみたいな言い方になるが、それ以上でも以下でもなかろう。ここに日本的な美意識まで感じ取ろうとする人もいるようだが、まあ、感じ方は人それぞれでよかろうね」

問う人「なるほど。でも、今は書く人減ってますよね。少し前ならメール、今はラインその他いろんなメッセージ伝達手段がありますから」

知る人「さきほどは『それ以上でも云々』と私は言ったが、実はそれ以上の意味がある。否、それ以下或いはそれ以前と表現した方がふさわしいかもしれぬ」

問う人「書く練習、ですか」

知る人「いい勘しておるではないか。その通り。今は何でも指一本で表現できるし、伝えられる。漢字の誤変換が当たり前みたいに認識され、それをハナシのタネにすることも珍しくない。入力できるというのは、選択できる、ということに過ぎぬ。いくつかの候補から選ぶだけだな。その文字を書けない、書いたことがない、というのは山ほどあるはずだ。まあ、漢字だけではなくてだな、とにかく、直筆から遠ざかって暮らしているのが私たち現代人なのだ。中には、PCかスマホ以外では一切文字を書かない者もいるだろうな」

問う人「そうですねえ。作家やなんかでも、今や手書き派は少ないと聞きますよ」

知る人「パソコンがなかった頃はワープロだな。日本の小説家で、ワープロ書き第一号は、確か安部公房氏ではなかったかな。未発表作がフロッピーディスクの中から見つかった、というのも安部氏だったと記憶しているが」

問う人「フロッピーディスクですか。なんだか懐かしい響きだな」

知る人「フロッピーを懐かしく思えるぐらい、私たちの文明は進化の速度をはやめている。だが、文明の進化は必ず諸刃の剣となる。結局のところ、悪い点より良い点の方が優っていれば、それは歴史の上で高評価されるわけだな。しかし、例えばスケジュール管理について言えば、時代の先端を行く企業のトップであっても、手帳に手で書き込んでいる人が少なくない。高齢者の介護などをしている方はわかると思うのだがね、手を動かすということは、単に手だけの問題ではないのだな。手を動かすのは、脳の働きによるだろう。手を使うということは、脳の活性化には間違いなくプラスの効果をもたらす。高齢者だけに非ず。若者であっても、自らの手で何かをするのは、とても大切なのだ。書く、という行為は、自分の頭の中を視覚化する作業でもあろう。心の中もそうだ。だからこそ、年に一度は自分の手で年賀状を書くべきなのだ」

問う人「あの、すごく細かく印刷された年賀状で、印刷の文面だけで、直筆がまったくないのもありますよね。ああいうのはあまりいい感じしないなあ」

知る人「いかにも。印刷であっても、どこかに一筆添えるのが、人としての礼儀である。どこにも余白のない賀状などないはずだからね。自分の手で書くのだよ。小さなことかもしれぬが、こんな部分からも、民族の傷口は広がってゆくのだ。民族の黄昏を永遠なものにしたくなければ、手を使うことだ。書くのはその最たる行為である。ただ文字を連ねているだけにとどまらぬ、ということを、肝に銘じておいてもらいたいものだな」

(了)

1649字。

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