一等国幻想を捨てよ

【東京五輪推進派の人々は、開催国としての責任という言い方をしますね。中止したら世界中のもの笑いだと。このあたりの論旨に、どうも時代錯誤的なものを感じてしまうのですね。国民あっての国家ではありませんか】

 

 

知る人「オリンピックは今や大商業イベントだ。とにかく莫大な金が動く。だが、算盤をはじくということ以外で考えた場合、その開催意義は何か。国威宣揚が第一であろうな。政治宣伝に利用したと言えば、戦前のヒトラーがよく例に挙げられるがね、どの国のどんな政権も、程度の差こそあれ、政治利用のために活用し、政権強化を図ってきた」

問う人「そうですね。ですから、政権寄りの連中が、責任だのなんだのと口にするのはわかるんです。でも、そうではない人々までが、国家の威信といった言葉をやたらと口にするのですね。ここらがどうにも解せないところでして」

知る人「おそらく、大きく分けて二つの幻想にとらわれておる。一つはオリンピックの力への過剰な信頼、言ってみれば五輪信仰みたいなものだな。オリンピックは世界を一つにする強烈な求心力を持っており、これを開催するのは国際社会における最高度の役割である、といったところかな。もう一つは、そんなオリンピックを自国で開催できること、これすなわち国際社会で認められた証=一等国としての承認を得た、という認識であろう。明治維新以来の ”追いつき追い越せ” 主義の残滓とも言えるかもしれぬ。このような認識は、裏返せばそのまま欧米コンプレックスとなる。ここにあるのは、富国強兵策の延長としての認識、つまり、国あっての民、という高圧的感覚であり、民主主義とは正反対の精神だ。こういった発言者は、自分自身をも一等国民だと思っているだろうね」

問う人「自由な商売を抑えつけられたり、急に職を奪われたりしている生活者の方を見ていないですよね」

知る人「彼らはね、コロナ禍と五輪は別次元で考えるべきと思っておる。コロナ禍の人々の救済と、世界の祭典・オリンピックとは、個別に論ずるべきというのがその根底にある。だが、コロナ禍の日本は、言ってみれば傷だらけの体だ。そこに真っ白の五輪という純白のシャツを着れば、シャツは血に染まるであろう。個別に論ぜよというのは詭弁に過ぎぬ」

問う人「民衆の暮らしを、民衆自身が軽視しているということですね。今の日本を見ていると、国土を次々と治外法権にされていった清朝末期の中国を思い出します。欧米のやりたい放題で、最後にはそのツケがすべて私たち一般民衆に回ってくる」

知る人「いかにも。健全なる国家、健全なる国力というものは、適度に条件の整備がなされていれば、あとは私たち国民が作り上げてゆくものなのだ。否、そうあらねばならぬ。明治維新以来、私たちは常に、上からの改革を享受してきた。金儲けはうまくなったが、自らの暮らしが脅かされたとき、何をどうしたらよいか見当もつかぬということに、今回のコロナ禍と、それに連動する五輪問題で明らかとなった。暮らしが第一だと、ごく当たり前のことを言うのにも勇気がいる。多くが同一方向を向かされているからね。ネットのニュースには、全体の動きに合わせるために暮らしを破壊された人々の嘆きが報道されている。昨日も、二度の東京五輪のために、二度立ち退きを命じられた老人のインタビューが掲載されていたね。いつの世もこうして、真面目な人が損をする。だからといって、昨今のツイートなどで散見されるような、 ”何やってもムダでしょ” みたいな姿勢では何も変わらぬ。ニヒリズムで得をするのは権力者だけだ。暮らしを犠牲にしてまで五輪を強行開催せねばならぬほど、日本は崖っぷちにいる国ではない。国家だ威信だと勇ましい言葉を高らかに唱える連中に押されてはならぬ。暮らしを守るのだ。これこそが、第一に取り組むべき最優先課題なのだから」

(了)

1586字

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