マスク優等生と震災優等生の共通点
【海外メディアが五輪の取材で来日して、日本人のマスク着用率に驚嘆したそうですね。マスクしていない人を一人も見ない、と。ここでまた例の、生真面目な国民性というやつが注目されています。こんなステレオタイプ、もうウンザリですが】
知る人「まったく同感だな。とりわけ欧米人にとって私たちは、はるか極東の民だ。自分たちとの違いが明確な方が、自国の読者や聴衆へ訴えかけやすいのであろう」
問う人「なるほど。ホラ、こんなに違うだろ、って感じで」
知る人「そう。違いがはっきりしていると、共通点や類似点も見つけやすくなるからね。だが、当事者である我らにとっては迷惑な話だ。まあ、我が国のテレビをはじめとする報道関係者の基本姿勢が、いまだに ”不思議の国・ジパング” だからな」
問う人「そろそろ卒業したいものですが」
知る人「メディアの受け手たる我ら次第であろう。安易な報道姿勢に拒否反応を示さぬ限り、今の傾向は続く。たぶん、22世紀に至るまで」
問う人「今回の東京オリンピックって、いろんな問題提起があって、オモシロイですよね。あ、不謹慎だったかな」
知る人「気にするな。我らは無名人、ここは誰も読まない無風地帯だ。ところで君の冒頭の所感についてだがね、生真面目な国民性という評価は、過去に何度も海外からいただいている。真っ先に思い浮かぶのは、2011年の東日本大震災だ。振り返ってみれば、1995年の阪神・淡路大震災以来、災害のたびに日本人の規律正しさなどが注目されてきた気がするね。だが、例えば阪神・淡路大震災のとき、ボランティア活動などの感動的な人道援助の報道の陰で、何もせず、まるで見物しているかのようにただ被災地を歩き回っていただけの青少年たちもいた、という現場報告もあったのだ。日本人を評価しやすい現実だけを部分的に切り取って、不都合なところは切り捨てるか、或いはずっと後回しにする。ある程度は、報道する側の意向に左右されるのもやむを得ないのだがね」
問う人「最近は、フェイクニュースっていうのが問題視されてますよね。何も信用できなくなってきた気がします」
知る人「信頼に足る情報源を、自ら確保する他あるまいね。偽造でなくても、報道の順序、言い換えれば配列だな、コマの並びを巧みに入り組ませるだけでも、視聴者を惑わせることが可能だ。暗示というやつがあるだろう。わかりやすい例で言えば、旅行に行こうとしている人に向かって、
おみやげはいらないからね。
…これだけでもう、立派な暗示だな。ああ、話が違う方に向かっているね、失礼。閑話休題といこう」
問う人「震災報道と、マスク着用率100%日本人との共通点ですね」
知る人「そう。両者の共通点をひとことでくくると、<生真面目な日本人>となろう。多くの人命が失われた未曽有の大惨事の中にあっても、規律や礼儀を守る。マスク着用をまるで国民の義務であるかのようにとらえ、周囲数十メートルに誰もいなくてもマスクを外さない。これらの行為・態度が、いずれも真の意味で自主的な行動原理によるものであるならば、何も問題はない。じゅうぶん称賛に値すると言ってよかろうね。だが実態たるや、常に周囲の視線を気にし、雑音にも耳を澄まして、集団の原理から自分が逸脱しているのではないかと恐れている。そして、逸脱した者には冷淡な目を向けてじわじわと迫害する。このように、想像的被害者と実際的加害者が、我ら日本人の中に共存しているのだ。
あ、あいつ、炊き出しの列にちゃんと並んでないぞ。
…というのと、
あ、あいつ、マスクしないで外を歩いてるぞ。
…というのは、見事なほどに同根の意識なのだな。要するにだな、生真面目なのではなく、お上に盲従する被虐待民時代からの遺伝子を受け継いでいるというわけだ。この問題については、過去に当サイトでも再三論じているから、そっちも参考にしていただきたい。上から抑えつけられてもいないのに、いつも圧力を感じているのだからな。支配層にとって、こんなラクな民は他におるまいね」
問う人「なんとかなりませんか、そんな国民性」
知る人「再三唱えているように、教育だな、教育。ここが根本から間違っているのだから、これからも猛獣ならぬ盲従が増えていくことだろう。前回で論じた通り、幕末の私塾乱立時代に戻さねばならぬ」
問う人「そこから、21世紀の緒方洪庵や吉田松陰の輩出に期待する、と」
知る人「そうなればいいがな。ただ秩序が乱れるだけに終わるかもしれぬが、清朝末期の中国よりはまだマシであろう。流血の騒ぎを誘発することもあり得るが、新生日本誕生のためには許容するしかあるまい。祖国の未来を心から憂うる者どもよ、今こそ立ち上がるのだ。惰眠を貪る時期はとうに過ぎたことを知れ」
(了)
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…マスク着用などについては、以下の記事でも論じております。皆様のおメガネにかなうかどうかわかりませんが、よかったらご参照ください。