インターネットの匿名性を考える
【50代既婚男性です。ある若い女性とラインでつながっていたのですが、わたしの年齢がわかったとたん、ライン回線から脱出されてしまったんです。今、<メンバーがいません>と表示された状態です。変な関係ではなかったのに、残念です】
知る人「変な関係、というのは、昨今よくある、犯罪に発展しそうな、怪しげなる関係ということかな」
問う人「そうです。そんなのを期待してたのではなくて、ただ、とてもまじめそうな人だから、お話相手として続けるつもりでした。それが、昨夜のラインで年齢を教えたところ、今朝みたらさっさと逃げ出していたんですね。実に哀しいです」
知る人「なるほど。しかしだな、人間同士の思い違いや勘違い、早合点などは、ネット社会のはるか以前からあっただろう。まして、相手は顔も知らぬ女性だ。じゅうぶんあり得ると思うのだがね。衝撃を受けるほどのことではなかろう」
問う人「まあ、冷静に考えるとそうなんですが、真摯な方だと思っていただけに、割り切れないものが・・・」
知る人「そうだな、インターネットの怖さを知る上で格好の題材とも言えるから、ここはひとつ、君のささやかな体験をもとにして、少し話してみることにしよう」
問う人「はい、よろしくお願いいたします」
知る人「本論の表題に掲げてある通り、インターネットには<匿名性>という特徴がある。これは、使い古された表現で申し訳ないが、まさに諸刃の剣だ。うまく活用できる反面、油断したらひどいめにあう。いわゆる誹謗中傷によって命を断った有名人がいたね。あの事件をきっかけに、規制のことが議論された。だが、考えて見よ、今や、指一本の操作で、地球の裏側まで瞬時につながる時代だ。情報網は全世界に張り巡らされ、これに関しては国境も何もあったものではない」
問う人「そうなんですよね。一瞬で広範囲に情報が拡散してしまいますから、規制なんて無理ですよね」
知る人「無理であり、無意味であり、無駄である。インターネット社会というのは、私たちが求め続けてきた豊かな社会の、当然の帰結なのだからな。もはや、誰にも止めることはできぬ。だがな、もともとこれは、米国の軍事利用を目的に開発された技術だ。それが一般社会にひろがった。このように、いかなる文明の利器も、先に言ったように、諸刃の剣なのだからな、要は平和利用に力を注ぐしかないのだよ」
問う人「ネット上のいざこざは、まあ、しかたがないということでしょうか」
知る人「もちろん、程度によるであろうな。あまりにひどすぎる場合、何らかの対応は必要だ。だが、こういうのはだな、結局はいたちごっこなのだよ。抗生物質を見るがいい。次々と開発しても、次々とその裏をかく耐性が生まれてゆくではないか。あれと同じなのだ。根本治療は、薬で抑えるのではなく、そもそも、感染・発症しないことが大原則であろう。インターネットの場合も、つまらぬ匿名記事やぼやき、つぶやき等々に心を奪われることのないよう、日ごろから ”自分” というものを磨く努力が欠かせぬ。月並みな回答になってしまうのだがね、こんな時代だからこそ、確かな知性と教養が、なんとしても必要なのだよ。平和利用と非平和利用を天秤にかけ、常に平和の方に傾くようにしむけていかねばならぬ。わかるかね、今ほど、人間の底力が試されている時代はないのだ」
問う人「そうですよね、AIなんか、まさにそう思わせることですものね」
知る人「これからいちばん求められるのは、知識ではなく哲学だ。知識を集合させ、発酵させて、それがあらたな地平を見渡す力になり得たとき、私たちはもう、ネットだAIだ、と騒がなくなっているだろう。そのときにはまた新たな技術革新が起きているだろうが、哲学的思考回路をいったん開通させた人間ならば、どんな文明の利器にも打ち勝てるはずだからな。話が主題からはなれてしまったが、表題に沿って言えばだな、確かな自己を持つ者であれば、匿名情報など恐るるに足らずだ。・・・ん、どうしたのかね」
問う人「あ、いえ・・・わあ、さっきお話した女性からです。フェースブックでもつながってたんですけど、今、メッセンジャーを通して連絡来ました。
おはようございます。朝起きたら、なぜかラインが切断されてました。なにかしらね。IDお送りしますので、もう一度開通お願いします。
・・・なんだ、わたしの勘違いだったのかな。いや、お恥ずかしい」
知る人「一件落着だね」
(了)
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