夢を持つな、若者よ
【先日、あるノーベル賞受賞者の書いた本を読んでいたら、『夢を持とう』という言葉が何度も出てきました。そう言われてそのようにできれば、何の苦労もありませんよね。成功者の言葉って、何かが欠けているような・・・】
知る人「夢を持って生きろ、というのは、成功したあとに言う決まり文句みたいなものであろうな。まあ、気にすることもあるまい。何が君の心に引っかかっているのかね」
問う人「はあ、単純にそう言われることに対する反発と申しますか、いや、反発ってのは言い過ぎかな、抵抗を感じるってところでしょうか」
知る人「物理学賞や化学賞など、昨今のノーベル賞受賞者の多くは、米国で潤沢な研究費を使って学究的生活を続け、超大国の庇護のもとに成果を上げている。いわば、戦後日本の縮図の如き生き方をして栄冠を勝ち取ったわけだ。そのような特権階級が ”夢” などと口にするとき、それは自分たちの高位を際立たせる効果を発揮し、夢というごく普通の単語を、私たちの日常からかけ離れたものにしてしまう」
問う人「はあ、つまり、かえって夢が遠のくって感じでしょうか」
知る人「そういうことになるだろうな。学者に限らず、スポーツ選手でも芸能人でも商人でも、とにかく、成功者と目される人物が語るのは、『夢を持て』なのだな。とくにスポーツ選手が言うだろう、『わたしたちは、多くの子供たちに夢を与え云々』とね」
問う人「メダリストなんかがよく言いますよね」
知る人「まあ、 ”夢” の中身が何であれ、要は人が何かで活躍し、華々しく実績をあげるということだ。これには必ず、その前提条件としての舞台設定が欠かせない。例えば、大谷翔平選手のように、或いは、最近知名度が下がったと嘆いているイチロー氏のように、米国の野球界で活躍したいと考えている場合。これには、米国という場所が確固たるものでなければならぬ。政情不安で国内が荒れていて、外国人排斥の如き空気が支配的になれば、渡米もままならなくなるであろう。これは特殊な例かもしれぬがね、もっと根本的な言い方をすればだな、金持ちになりたい、と思う。ここで一歩踏みとどまる、さて、<金>とは何だ。俳優になりたいと思う。ここで一歩踏みとどまる、さて、<演技>とは何だ。小説家になりたいと思う。さて、何のために虚構世界を描くのか。描く、という行為の本質とは何ぞ。その他その他、考えていけばきりがないのだが」
問う人「前提となる何かを疑え、ということでしょうか」
知る人「その通り。典型的な例が、男と女という性別の概念だ。簡単な調査や何かの申し込み用紙などで、性別欄があるだろう。そこに、男でも女でもない第三の選択肢が設けられている。曰く『どちらでもない』『答えたくない』といった類だな。男女の別というものは、いまだかつて、おおやけに疑われたことはなかった。もちろん、性の不一致に悩んだ人は昔からいた。が、今ほど大々的に、根こそぎ価値観の変更を迫られる事態には至っていなかった。このように、かつて、20世紀の時代には当たり前のものとして認識されていたもの、学者用語で言う<所与>のものが、片っ端から再審理の対象になってきている。つまり、ものごとを考える際の不動の礎だったはずの土台が揺らいでいるのだ。中には、土台としての役割を果しえなくなった概念もある。かくの如き時代に夢を語るのであれば、その前に、夢を実現する舞台が盤石な状態か否か、確認しておかねばならぬ。ついに、生きた哲学が求められる時代が来たのだよ。自分のよって立つ場をまず疑うべし。すべてを疑ってもよい。これは実に疲れる思考作業になるだろうがね、そうすることで、ある地点に達するだろう。そこは見渡す限りの大平原であり、何をどうすればいいか皆目わからぬ異世界だ。が、そこに彼・彼女は、一点の光を見出すであろう。(あ、あそこに何かあるかもしれない)という、かすかな希望の光だよ」
問う人「あの、すいません、何か一つでいいですので、例を挙げて説明していただけませんか」
知る人「そうだな。話がやや観念的になり過ぎたかもしれぬ。では、進学を例に出してみよう。必死で受験勉強して、世間で言われる ”一流大学” に入った若者の場合だ。あんなにがんばったのに、大学とは何と空疎なところかと、おおいに嘆いている。この精神状態では、夢を持つことは不可能だね。あるのは悪夢だけだ。が、ここで考える。進学とは何か。学問のためか、就職のためか、はたまた人間的修養のためか。大学とは、世間では最高学府と呼ばれる。でも、大学出の社会人など、今は掃いて捨てるほどいる。ネット上を愚かな発言や恥さらしな態度でにぎわす者の多くが大卒だね。そのような現実を見ていると、いったい、本当にここは最高学府なのか、と疑わざるを得ぬ。では、大学というのは、昔からこんなに馬鹿面をさげた者だらけだったのだろうか。ここで我が国の教育制度を振り返る。まずぶつかるのが戦後の教育改革だろうが、これのほとんどは米国からの押し付けか、ご機嫌伺いの追従的施策だ。となれば、明治あたりまでさかのぼろう。帝国大学時代の大学について知る。が、明治日本は、西欧文化・文物の急速輸入でこしらえた国だ。西欧の人々が血を流して勝ち取った成果だけを輸入した。ううん、これでは大学教育の神髄に届かぬ。そこで今度は、学校教育のおおもとまで一気にさかのぼってみる。古代のアカデメイアやリュケイオンまで、時計の針を戻す。そこから徐々に現代に近づこうとしてみるのだな。その過程で気付くだろう、(何と、世界は自分の知らないことだらけだったんだ)とね。いったんそこで立ちすくむかもしれぬ。だが、やがてあらためて一歩を踏み出すことになるだろう。これは極めて重要な一歩だ。この若者は、愚者であることをやめたのだからな。そして、このときすでに、この人物の意識の中から、 ”夢” は消えている。そのようなものは、もつ必要がないと理解したのだな。それよりもまず、自分でも理解できる事象を見出し、そこから少しずつ、少しずつ、世界を広げてゆこう。彼・彼女はそう思うのだよ。こうなれば、もはや教科書も参考書もいらぬ。自力でそれらを見つけ出す意思を持ったのだから。わかるかね、夢というのは、こうして、少しずつ、活躍の舞台を自ら築いてゆく過程のなかで見出すものなのだ。著名人たちの能天気な、軽はずみな ”夢” 発言に惑わされるな。まずはおのれのよって立つ場を疑うのだ。すべてはそれからだ」
(了)
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