何かに打ち込む生き方を

【我が心の琴線に触れることだけを仕事にせよ、というお話でしたが、やむを得ずそうできない人もいるのではありませんか。働くとは何か、という、人として根源的な問いかけについて、もう少し考えてみたいのですが・・・】

 

*本記事は、12月22日金曜日付 <男は仕事>。これぞ諸悪の根源  の続きとしてお読みください。

 

知る人「やむを得ずそうできない、というのは、つまり、意に沿わぬ仕事をし続けねばならぬ事情を抱えている場合のことだね」

問う人「そうです。好きなことを仕事にする、というのを主題にして過去に論じられたりもしていますが、そうできない人というのは、結局のところ、不満を抱きつつ日々の労働に明け暮れ、くたびれて生涯を閉じるんじゃないか。そんな気がするんですが」

知る人「そういう人も、そうでない人もいるだろうね。これについての議論では、

2019年4月3日付 <好き>を仕事にするな

2023年12月2日付 『好きなこと』って、どんなこと

・・・というのがあるのだが、当サイトの性質上、結論が異なっていたり、論旨が途中でねじれたりしているのは、どうかご理解いただきたい。これらについては、運営者・U氏のそのときどきの心境しだいなのでな。…と言い訳したところで、本題に入ろう。仕事する、という言い方は、労働以外にも使われるがね、ここでは、『生活の糧を得るための労働』=仕事 と定義しておこう。この場合、それに向かう態度は、大きく二手に分かれるであろう。

①興味・関心のあること、自分の特技を活かせることをして働く

②生活の糧を得るためと割り切って、そのときできることをやる

・・・上記①②に共通しているのは、迷いがないという点だ。どちらにせよ、精神的な重圧は少ないであろうな」

問う人「そうですよね。でも、そういった人たちだけじゃないでしょう。今ここで問題にしようとしているのは、三番目の人たちではありませんか」

知る人「いかにも。③生活のためと割り切れぬが、生きてゆくには働くしかない、を加えよう。冒頭で君が言ったのは、この群に属する人々のことだね」

問う人「そうです。日々がつまらない、ただむなしく過ぎてゆく、こんなはずじゃなかったなあ、という心境ですね」

知る人「当サイトでたびたび論じられたことと重なる部分もあるがね、今君が言ったような人の場合、心の奥に無理やり押し込んだ何かを、外に引っ張り出さねばなるまいね。何だかわかるかな」

問う人「ほんとうの自分、ですか」

問う人「今風の紋切り型で言えばそうだな。例えば、実は画家になりたかった、とか、小説を書きたいとか、まあ、いくらでもあるだろうが、要は現在の自分にかなわぬ何かだ。生真面目な人ほど、こういった自分らしさの部分を心の奥に押し込んでしまい、それを思うのは子供っぽいとか、社会人になりきれていないとか、往生際が悪いとか、とにかく自分を責めるのだな」

問う人「現実路線で行け、ってことですね」

知る人「そう。このような人はだな、単純な話、心の奥からそれを取り出して、もう一度育ててゆくのがいちばんなのだ。結局はモノにならぬかもしれぬが、やりたいことを手つかずなままにしておくのは、自分に対して不誠実な生き方と言ってよかろう」

問う人「思いっきりやってみて、だめならあきらめるしかない、ってことですよね」

知る人「まあ、結論的に言えばそうだな。本記事の表題に沿えば、そうして何かに打ち込む日々を実現しよう、となる。ただ、この場合の<仕事>は、最初の定義とは違うね。言ってみれば、神に与えられた役割を果たすとでも表現すべきかな。金にはならぬが、自分になれる。が、ここに大きな問題点がひとつ残るのだ。何だかわかるかね」

問う人「神に与えられた役割のない人、ですか」

知る人「そんな人間はおらぬ。必ず何かを割り当てられているものなのだ。問題はだな、その役割を感じられず、自分が何のために生まれてきたのかわからぬ、と深く悩んでしまう場合だ」

問う人「いっぱいいるでしょう、そんな人は」

知る人「そうだな。だが、よく考えて見よ、人間は、 何かしなければいけないのか  。この世に生まれ、ただ普通に暮らしている。それだけでもいいのではないか。何かするというのは、生きる上での絶対条件なのか。何もせず、ただ存在しているだけでじゅうぶん、という生き方もあっていいはずなのだよ。わかるかね、生まれてきたからには何かしなきゃ、この世に何か残さなきゃ、と多くの人は考える。でも、他人の迷惑にさえならなければ、何もせぬ、というのもひとつの生き方なのだ。本記事の表題に対して言えばだな、何かに打ち込む生き方、というものが、必ずしも必要ではないのだよ。ただ在るだけがもっとも自分らしいのであれば、そうするのが自然なのだ。他人に合わさずともよいのだ。それが本当の自分ならば、そうするのが神の摂理にかなった生き方なのだ」

(了)

2006字

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