神も仏も、あるものか(1)
【まったく読者のいない当サイトですが、いちおう、新年のご挨拶を。明けましておめでとうございます。今年2024年から、サイト当初の三段階構成に戻してみたいと思います。本日は、その第一弾。まずは軽い問答から・・・】
父「また悩んでいるな。新年早々、何を考えてるんだい」
子「ああ、神も仏もあるものか・・・と考えると、何だかやりきれなくて」
父「何のことを言ってるのかな」
子「能登半島の大地震のことですよ、お父さん。最大震度7。またたくさんの方々がお亡くなりになりました」
父「亡くなった皆さんのことを思って、やりきれなくなったのかな」
子「そうです。だってそうでしょう、全国みんなが、『ああ、また新しい年の始まりだ。今年はいい年にしたいなあ』なんて思っていて、たぶん、今回の被災地の方々も、そんなふうに思いつつ、お正月を楽しもうとされていたでしょうね。それが一転、この世の地獄ですよ」
父「まあ、確かに、気の毒ではある。だが、君がそうやって思い悩むことでもなかろう」
子「気の毒で気の毒で、もう、何と言っていいのか、言葉が見当たらないですよ、お父さん。それに、同じ地域に住んでいても、命が助かった方々もおおぜいいらっしゃいます。この差、この違い。何と表現すべきですか」
父「まあ、運が悪かったとしか言えないだろうね。わたしも、他に言葉が浮かばないよ」
子「そうなんですよ、運ですよ、運。命を奪われた方は悪運の、助かった方は好運の持ち主なんでしょうね。でも、<運>だけで片づけていい問題じゃないと思うんです、ぼくは。お父さんはどう思いますか。仕方ないだろう、って思いますか」
父「そう詰め寄らないでくれ。落ち着きなさい。運が悪かった、と言う以外に何があるんだ。日ごろの行いか。前世の祟りか。信心不足か。なあ、息子よ、あてはまるものが何もないだろう」
子「・・・ないですね」
父「1995年の阪神淡路大震災のときも、2011年の東日本大震災のときも同じだった。いつも2階で寝ているのに、その日だけ1階にいて、天井の下敷きになった人。いつも屋内にいるのに、その日は外にいて助かった人。一瞬の出来事の中に、いろいろなことが起こり過ぎた。わたしもそう思ったものだよ。つい先日、東京駅前の工事現場で、巨大な鉄骨が落ちる大惨事があったね。ああいうのもそうだ。その場にいなければ助かったんだからな。でも、そこに居合わせたために、ただそれだけのために、その人の生涯は強制終了だ」
子「そういうのって、あとで原因究明したって、意味ないじゃありませんか。亡くなった方は戻って来ないんだから」
父「無意味ではないだろう、おおいに意味あることだよ。考えて見なさい、また同じことが起きるかもしれないんだよ。そうならないためにも、また、遺族の方々のお気持ちに答えるためにも、原因の究明は必ずやらなければならんね。地震は自然災害だが、その場の状況次第では、人災と言い得る場合もあるだろうしね。いずれにせよ、起きた、悲しんだ、で終わるわけにはいかないね」
子「そうやって亡くなった方のご遺族って、どうやって気持ちを静めるんでしょうね」
父「まあ、しばらくはおさまらんだろう。よくテレビでやってるよね、あの〇〇事故から〇十年、とかいうふうに。遺族の方は、今でも悲しみを背負っておられる。冷静にじっくり思い起こせば、どうしたって納得はできんだろうな」
子「なんでうちの子が、親が、って、考えてたら、どこまでも深みにはまっていきそうですよね。ああ、あまりに不公平な」
父「息子よ、もうやめなさい。そうやって考えても、亡くなった方々は浮かばれないよ。それに、君だってどんどん沈んでゆく。前を向くしかなかろう」
子「ぼくには日々やるべきことがたくさんあります。悲しんでる場合じゃないんでしょうね」
父「災害だけじゃない、事故も、犯罪も、おそらく永遠になくならないだろう。そのたびに悲しんでいたら、君自身がすり減っていって、いつか無くなってしまうぞ。しっかりしなさい。明日も朝早いんだろう」
子「・・・朝5時過ぎにはうちを出ないと」
父「そうだろう、何があろうと前に進むしかないんだよ。それがわたしたち庶民の生き方なんだからな」
(了)
1725字
*父と子の会話、いかがでしたか。ここには、いくら考えても結論の出ない難題が大きく横たわっていますね。次回(2)では、その難題について真正面から論じてゆきます。
続編: 神も仏も、あるものか(2)