神も仏も、あるものか(3)
【能登半島地震の犠牲者の方々について、いろいろと思うところはあるでしょう。でも、いくら議論しても結論の出ない主題がありますね。なぜ彼らがそうならねばならなかったのか。なぜ ”選ばれて” しまったのか。この点に尽きます】
*本記事は、 神も仏も、あるものか(2) の続編としてお読みください
由紀夫「読者の皆様、どうまわり由紀夫です。6年ぶりに、出番が回ってまいりました。よろしくお願いいたします」
悩む人「前回の記事で、神谷美恵子の言葉が紹介されていましたね。でも、 ”選ばれ” た側のみなさんは、それで納得できるんだろうか、(なぜ自分が…)との思いを拭い去るなんて、できるんでしょうか」
由紀夫「人にもよるでしょうが、まあ、極めて難しいでしょうね。記録に残る発言というものは、すべて、外部に向けて体裁を整えた形で発表されます。実は内心まったく違っていても、その方の心の声は誰にもわからないでしょう」
悩む人「そうですよね」
由紀夫「なかには、宗教的な境地に達して、自己の運命のすべてをそのまま受け入れてしまう方もいらっしゃるのかもしれません。でも、仮にそうだったにせよ、遺族の方々の心境はどうなのでしょうね。計り知れない悲しみに沈んでいるのではないでしょうか」
悩む人「ぼくもそう思うんです。犠牲者の残酷な運命を、遺族が受け入れるには、どんな考え方をするのがいいのでしょうね」
由紀夫「犠牲者のことを、幼いころから知り尽くしている人たちですからね、過酷な現実を受け止めるには時間がかかるでしょうね。キューブラー・ロスが述べたように、運命の受容に至るまでには、いくつかの段階を経るのが一般的でしょうから」
悩む人「なぜうちの家族が、とか、いやいやこれは夢なんだ、とか、複雑な心理が錯綜するのでしょうね」
由紀夫「まあ、いつまでも悲しんだり落ち込んだりしてはいられませんよね。私たちは前を向かねばなりません。では、過酷な運命をどうやって受容するのが自然なのでしょう。この一点に絞って考えてみたいと思います」
悩む人「なぜうちの家族が、という気持ちを、どう消化すればいいものか、ですね」
由紀夫「事故も災害も政変も、予測が難しいですよね。今回のような場合はなおさらです。たまたま自分たちの町が襲われた。そして、我が家族が、たまたま危険な場所にい合わせてしまった。これはもう、偶然としか言いようがないですね。残酷な言い方になってしまって申し訳ないのですが、運が悪かったとしか表現のしようがない。前回記事の結論は、遺族がそれでも前向きに生きてゆくには、といった視点から出たものでしたが、前向きな一歩を踏み出す手前の心境ですよね、今回の主題は。例えば18歳で亡くなったとしましょう。これはつまり、この人は生涯の長さを18年と決められていたのか、それとも、ある強力な何かが割り込んできて18年という短い尺に押し込められたのか。あなたのご家族がこうなったとしたら、あなたはどちらを思いますか」
悩む人「たぶん、最初は後者ですね。強制終了させられたんだ、本当はもっともっと長生きできたんだ、と。でも、時間が過ぎるうちに、いや、18年の生涯だと、あらかじめ定まっていたのだな、というふうにして、心境が変化してゆくような気がします」
由紀夫「同感ですね。結局はこうだったんだ、これでよかったとはもちろん思えませんが、言ってみれば我が家族は、長編ではなく短編の主人公だったんだ、ということにでも落ち着きましょうか。確かに辛いですよ、ついさっきまでそばにいた人と永久に会えなくなるなんて。走り回って叫びたい心境でしょう。なぜだ、なぜだ、誰か説明しろ、いやいや、そんなことはいいから、元の平和な町に戻してくれ。そんな思いが今にも胸の中で爆発しかかって、とても言葉では表せない状態でしょうね。しかし、最後には納得するしかありません。そして、亡くなった人に伝えるのですよ、心の中で。あなたの人生は終わったんだ、短い間だったけど、ありがとう、とね。そして、これからも、犠牲者の魂とともに生き抜いてゆく覚悟を決めるのですよ。あなたの短編人生は、わたしが受け継いで、短編連作の長編仕様として完成させるからね。そう約束して、静かに送り出してあげるのです」
悩む人「辛いですけど、それがいちばんなのでしょうね」
由紀夫「使い古された表現になってしまいますが、これからは二人三脚で歩んでいこう、と、気持ちをあらたにして前進する。亡くなった人と、生き残った人。二人で一つの人生を完成させよう、と心に決めて、現実を生き抜いていってほしいものです」
(了)
1896字
・・・いかがでしたか。これで、新年最初の試運転は終了です。最後までお読みいただけたことに感謝します。
はじめから読んでみたい方は、
と通読してみてくださいね。