裸婦像撤去は民族の恥
【街頭や公園などにある裸婦像が、批判の目を向けられている。恥ずかしくてまともに見られない、わが子に見せられない、等々。いよいよわれら日本人は、ただの ”消費者” に成り下がったのだろうか。思考力も感性も錆びつき、労働力の提供と消費行動を繰り返すだけ。これが21世紀のわれらの姿なのか】
知る人「続報を見ていないから、その後の経過は知らぬ。ただ、一見して深く落胆させてくれた出来事だったね、これは」
問う人「単なるハダカだと思えば、そういった感覚しか持てないでしょうね」
知る人「設置される前も、地域住民などへの打診はあったはずだな。そのときは反対の声がなかったか、あってもわずかだったのだろうな」
問う人「当時賛成した人たちは、どう思ってるのでしょうね」
知る人「数十年前のことだからな、あるいは故人となった人もいるだろうし、健在でもおそらく高齢化して、意見を言う力が残っていないかもしれぬ。まあなんにせよ、撤去に反対する声がみるみる沸き上がり…とはなりそうにない空気だな」
問う人「見ていて恥ずかしい、というのは、単なる裸体だと思っているからですよね。芸術作品だと思えないのでしょうか」
知る人「思えば反対せぬであろうな」
問う人「では、わたしたち日本人の芸術的感性や芸術への理解度が下がったと考えるべきですか」
知る人「それはあるだろうな。美しいものを鑑賞するには、心のゆとりが必要だ。今の我が国にはそれがない。だがね、昔は多くの人が美しいものを理解していたのか、と問えばだな、私は<否>と答えたいね」
問う人「昔も今も、あまり変わってないんじゃないか、と」
知る人「そう。裸婦像の中には、海外の作もあれば国産もある。が、裸婦という形式は西洋から入ってきたものだろう。もちろん江戸時代の浮世絵などに裸の女性は描かれていたが、裸婦像とは明らかに違うものだ。西洋の芸術が日本に導入されてから、裸婦像も認知されていったのであろう。何が言いたいのかというとだな、ここにもやはり、われら島国民族に典型的な、舶来品への憧れという感情がみてとれるのだよ。西洋芸術を街頭に飾る。どうだ、わが国は一等国だ、とね。『日本人離れ』という異常な日本語がいまだ死んでいない現状を思えば、西洋への憧れが裸婦像誘致の原動力の一部となっていたのは、じゅうぶんに考えられることだ」
問う人「つまり、本気で芸術を導入したんじゃない、ってことですね」
知る人「さよう。そして、憧憬というのは、未来永劫続くものではあるまい。舞台の書き割りの如く、取り外しも入れ替えも可能な、言ってみれば衣服みたいなものだ。俗な言い方をすれば、『ああ、裸婦像にはもう飽きちゃった。次のもの探そう』ってところだな。こんな人ばかりではないのは言うまでもないがね、美しい飾りを置いて満足、ぐらいの気持ちだった支持者は多いのではあるまいか。猛然と反対の声が巻き起こらぬ現状を見ると、そう感ぜざるを得ぬ」
(了)
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