カタカナ日本語乱用、その最も重要な問題点とは
【『アート』というカタカナ語について論じた(9月15日号)。言葉が足りなかったため、誤解を招くのではないかとの懸念がある。そこで今回は、もっと詳細に論じてみようと思う。和語の歴史的欠陥とも言える難題を】
知る人「以前、姉妹サイト<破壊の為の小道具>の中で、カタカナ語をいちいちあげつらっては批判するという試みをやったことがある。数回でやめてしまったがね」
問う人「なぜやめたのですか」
知る人「きりがないからだよ。周囲を見渡せば、テレビを付ければ、新聞や雑誌を開けば、誰かの言葉に耳を傾ければ、もうとにかくいくらでも出てくるのだ。焼け石に水とさえ言えぬほどのむなしい行為だった。比較的最近だったと思うが、某通販雑誌でカタカナ語を特集する別冊を付けていた。ああいうのを見ても、真正面からぶつかって闘える相手ではないな、と痛感したね」
問う人「もはや打つ手なし、ってところですか」
知る人「それに異議を唱える人、違和感を覚える人がほとんどいないのだからな、改善のしようがあるまい。ほんの数日前の日本テレビでストーカー対策をやっていたのだが、後をつけられていると不安になったときには後ろを二度振り向く ”ダブルターン” なるものを推奨していた。番組に出ていた関西の下品な女タレントが、言いやすくて良い言葉だと褒めていた。この事例のようにだな、人命にかかわる緊急事態の場合、何よりも手続きが簡単なことが求められよう。言いやすければそれでじゅうぶんなわけで、こんなとき、『カタカナ語ではなく日本語を』などと言おうものなら、集中砲火を浴びるのは必至であろう」
問う人「はあ。そもそも<ストーカー>自体がカタカナ語ですしねえ」
知る人「数年前のコロナ蔓延の時期にこの話に言及している。東京都知事が、ステイホームだのソーシャルディスタンスだのエッセンシャルワーカーだの、次々と耳障りなカタカナ語を繰り出してくる現状を嘆いたものだが、これもストーカー同様に火急の案件だからな、言葉の使い方を問題にするゆとりはなかった」
問う人「そうですよね。感染者激増中に『エッセンシャルワーカーを日本語に言い直せ』なんて指摘できませんよね」
知る人「そうなんだな。が、それとは別の問題として、そもそも和語とはどの範囲までを指すのか、日本語とは何なのか、といった根本的問題を素通りしてはならぬのだ。アート→芸術、リスペクト→尊敬、レジェンド→伝説・・・と例を挙げればすぐ気付くと思うがね、これらは純然たるやまとことばではない。多くは明治以降に造られた漢語だ。なんせ怒涛の勢いでわが国に流入してきたのだからな、西洋の言葉が。これらを片っ端から日本語に訳さねばならなかった。そしてそうするには、漢字の力に頼らざるを得なかったのだな。同音異義語が増えたのもこれが理由であろう」
問う人「なるほど。日本語への言い換えと表現しても、その実、漢語への言い換えになるわけですね」
知る人「さよう。アートのところで例に出した本の題名などは論外だが、漢語がカタカナ語に替わった場合、言葉の乱れだと単純に言えないのだ。厳密に言えば漢語は外来語なのだから。つまり、日本語→中国語→英語等、と姿かたちが移り変わってきたわけだな」
問う人「難解な漢字より簡便なカタカナのほうがいい、という考え方もあるでしょうね」
知る人「そう。だからね、やまとことばへの言い換えとは、漢語を分解または解体する作業を伴わねばならぬのだ。たいへんな難事業だよ、これは。昔と比べ知的水準の下がった現代の国語学者などにできるとは思えぬ。国家の総力を結集せねばなるまい」
問う人「はあ、これはまたずいぶん、大きな話になってきましたねえ」
知る人「一民族の公用言語の問題だからな、一筋縄ではいかぬ。まずは問題提起ありきだ。それからその是非を国民に問わねばならぬ」
問う人「そんなこと問われて、まともに考える人がいるでしょうか」
知る人「・・・期待できぬであろうな」
問う人「てことは、この問題」
知る人「議題に乗せたところでまた考えるしかあるまい。気の長い話だよ。だがね、国語の問題なのだから、その方面の専門家が先頭に立つのが筋というものだ。本来なら国語審議会なのだろうが、例えばフランスの如く断固たる姿勢をとることができぬ及び腰の頼りない連中ばかりだからな」
問う人「でも、国語審議会の尻を叩くのが手っ取り早いのではないですか」
知る人「そうだろうな。世論を牽引する剛腕の学者が現れれば別だが、まあ、期待せぬほうがよかろう」
問う人「当面、このサイトでは何をするべきなんでしょうか」
知る人「そうだな、私は専門家ではないが、和語への言い換えを例示してみたり、日本語の学習教材を提示してみたりして、側面支援にいそしむのがいいだろう。微力ながら、愛する日本語の危機のために行動しようではないか」
(了)
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