<人生>をひとまず死語にせよ

【言葉の力が弱くなった。有形無形のあらゆるものが消費の対象となってしまった今、言語すら消耗品となったようだ。なかでも昨今よく耳にするのが<人生>。お手軽な合言葉と化したこの単語、いったいどこまで格下げされるのやら】

 

 

知る人「当サイトで一度取り上げたかもしれぬが、覚えておらぬのでな、ここであらためて言及しておきたい。人生という語は、今や<ちなみに>や<めっちゃ>などと同じくらいに使われており、口にするのが恥ずかしい軽薄現代語のお仲間入りをしつつある」

問う人「人生を変えた名言っていうような表現、あっちこっちで目にしますし、よく聞きますよね」

知る人「現役東大生に向かって、『人生を変えた本は何ですか』と問う企画があった。テレビだか何だか忘れたがね。まだハタチそこそこの青年たちが、何の臆面もなく堂々と答えておった。これから本腰入れて生きてゆかねばならぬ身であれば、かくの如き噴飯物の問いかけに答えられるはずがないのだな。何か言うとしたら、

私の人生はこれからですので、本の影響が今後どうあらわれてくるのか、長い目で見ないとわかりませんね。

・・・と回答するのが正解なのだ。そのうえで書名を挙げるのであれば、それは正しい判断だと言えるであろう」

問う人「そうですよね。その場合、正しくは『人生を変えるかもしれない本は』と問い直すべきでしょうね」

知る人「かつてわが国を支えた知識人の多くは東大の卒業生だった。各分野に綺羅星の如く存在したものだ。それがどうだ、大学名を売りにした芸能人崩れのような連中の何と多いことよ。この例を筆頭に、<人生>という語は、<暮らし><生活>よりよく使われ、威厳が取り払われてしまった。オリンピック選手等が試合後のインタビューで

人生でいちばんうれしかったです。

・・・などと普通に語るのを見るにつけ、言語の劣化とはこうやって進行してゆくものなのだなあ、と深く憂慮せざるを得ぬ」

問う人「ちかごろは小学生でも使ってますからね。わずか十年かそこら生きただけの子供が」

知る人「ブログランキングなどを見ていると、ライフスタイルという項目が目につく。WEBライティングの依頼内容にも、あなたの理想の人生は何ですか、といった質問を時々見かけるね。先の見えぬ混沌とした時代だからな、他人の生き方に関心が集まるのは自然な流れとも言えよう。だが、これは結局のところ、揺るぎなき人生哲学を生み出すのではなく、消費市場にジンセイという名の商品またはサービスを並べるだけで終わるのだ。自分の生き方をあっさりと他人に語れるというのは、その者自身が商品と化してしまった証左だ。自らの苦闘の歴史を都合よく捨象し、見栄えの良い品物に変えてしまうのだな」

問う人「なんだか自分を安売りしてるみたいですよね、それ」

知る人「なんでも見世物に格下げされてしまうのは、テレビ文化の影響であろうな。例えば民放各局の報道番組を見よ。殺人事件のように深刻な事件の報道をさわりだけやって、すぐコマーシャルを流す。事件の真相が知りたければまずは商品の宣伝を見ろ、というわけだ。WEBサイトでもあるだろう、急に広告に誘導され、欲しくもない商品の宣伝を読まされることが。こうやってすべてが見世物にされてしまった現代においては、人の生涯すら例外ではないのだよ。こんな生き方もあるんですよ、いかがですか、今ならお買い得ですよ、とね。この結果、生きるということを軽視する風潮がひろまってゆく。人を虫けらのように殺害して平然としている異常者が後を絶たぬ現状は、このあたりにその根があると言ってもよかろう。生きるということは、決して楽な行為ではないのだ。お互いが苦闘と苦難の歴史の途上にあるとの自覚があれば、他者の生命や生き方を、もっともっと尊重するはずなのだよ。それをわからなくしてしまう風潮は、実に危険と言わねばならぬ。だから<人生>をひとまず死語にせよ、と言いたいのだ」

(了)

1618字

 

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