食欲を抑えられないんです。

食欲について、或る医学博士による解説

食欲を満たす行動には2つの面がある。エネルギーとしての充足、そして報酬としての満足である。これらを得るには、正常な食欲を実感して<食べる>という行為そのものを大切にすること、そして<おいしい>と実感しながら食事をすることが非常に重要である。<報酬>としての食が満たされないと、それをエネルギーで満たそうとして、カロリーオーバーになりがちだ。つまり、おいしいものを<おいしい>と実感しながら食べることが重要なのだ。(中略)満腹中枢と側坐核が十分に満足し、必要以上のカロリーをとらずに満足することができる。

出典:櫻井武『食欲の科学』講談社 2012年刊

 

 

悩む人 「くだらないメールお送りしてすみません。どうしても話を聞いていただきたくて」

由紀夫 「まあ、とりあえずおくつろぎください。でも、失礼ながら、あの文面から想像した方とずいぶん違うので、私も少々戸惑っていますよ。想像力が貧困なのでしょうね、太鼓腹で赤ら顔のオジサンをイメージしていたのですが、いや、ハンマー投げの室伏選手かと見紛ったほどです」

悩む人 「スポーツなんてとてもとても。草野球ぐらいしかしたことありません」

由紀夫 「第一印象からは、夜な夜なドカ食いする貪食家としての姿を想像することはできないですね」

悩む人 「今日の昼はイタめし屋でパスタのメガ盛を食べて、夕方に駅の立ち食いソバ屋で天玉ソバを2杯平らげました」

由紀夫 「いつもそのぐらいの量なのですか」

悩む人 「1日3食のうち1食は大量ですね。メールに書きましたけど、8月末からですから、もうすぐ4か月になります」

由紀夫 「おそらく基礎代謝が高いのでしょう。他にも理由は考えられますが、それはまあ置いておくとして、大食漢に豹変なさったきっかけは何だとお考えですか」

悩む人 「8月に資格試験がありまして、その直後から始まりました。一時的な衝動で、いずれ通り過ぎるだろうと他人事みたいに思ってたのですが」

由紀夫 「資格試験というのは」

悩む人 「社会保険労務士の国家試験です。今年で3回目だったんですが、今回が一番ヒドかったんです。結果発表は11月ですが、自己採点で最悪の結果だとわかって、もうショックで」

由紀夫 「お勤め先は食品メーカーの総務課ですよね。会社から受験料の補助があるとか、或いは有資格者には手当が支給されるとか」

悩む人 「いえ、そういうのはありません。小さなメーカーなので、総務課と言っても、大手で言う労務・人事・法務・庶務などいろいろ兼ねた部署です。ただ、僕は20代の頃から社会保険に関心がありまして、その道の専門家を目指してたんです」

由紀夫 「過去形でおっしゃらなくてもいいでしょう。まだ30代、しかも独身なのですから、来年チャレンジなさったらいいじゃありませんか。今年合格しなければならない切羽詰まった理由でもおありなのですか」

悩む人 「会社が嫌いなんです。社風も、商品も、上司も。はやく辞めて人生再スタートだと意気込んでいたものですから、この職場にまだまだ通い続けなければならないって思うといたたまれなくて、試験の翌日、マクドナルドでビックマックセットを朝昼晩と夕方の計4回、深夜にコンビニの弁当を2人前食べました。気持ち悪くもならず、意外に爽快な気分だったものですから、いいストレス解消になったなんて軽く考えていたんです」

由紀夫 「食費がかかりますでしょう」

悩む人 「嫁さんがいたら、アイソつかして逃げてるでしょうね」

由紀夫 「このままではダメだという危機感はお感じになっていますよね。もし今の食生活をお続けになったとしたら、どうなるとお思いですか」

悩む人 「糖尿病とか高脂血症とか、ええと、何でしたっけ・・・そうだ、生活習慣病ですよね。そういうので体壊して、ボロボロになって死ぬんだと思います」

由紀夫 「生活習慣病というのは、文字通り、間違った生活習慣の積み重ねで発症します。ただ、かなり長く続けなければ、そうはなりません。私たち人間の体にはさまざまな自浄作用が備わっていますからね。今ならまだまだ全然大丈夫。少しづつ改めていけばいいのですよ。難関の国家資格に3度も挑まれたのだから、強い意志をお持ちのはずです。社労士に向けていたファイトを、しばらくの間、ご自身の食生活に向けられたらいかがですか」

悩む人 「会社を辞めたいんです」

由紀夫 「辞めて、どうなさるおつもりですか」

悩む人 「労務関連の仕事ができるところに」

由紀夫 「転職ですか。まあ、新しいお勤め先でも社労士を目指すのはできるでしょうが、ここまでお話を伺った感じですと、大食に至った理由が、まだ他にもおありなのではございませんか。差支えなければ、お聞かせいただけませんか」

悩む人 「僕はサラリーマンになりたくなかった、いや、なっちゃダメだったんです」

由紀夫 「誰かとそう約束なさったとか、ご両親、或いは幼なじみ、恋人」

悩む人 「5年前、母が亡くなったんです。膵臓癌でした。そうとわかったとき、母は延命治療を拒否しまして、診断の2か月後に息をひきとりました」

由紀夫 「まだお若かったでしょう」

悩む人 「僕は一人っ子で、母は25歳のとき僕を産んでるんです。まだ50代でした」

由紀夫 「今の私と同じぐらいですね。生前、あなたのお勤めについて何かおっしゃってらしたのですか」

悩む人 「葬儀も何もかも終えて、遺品を整理していたとき、本が出てきたんです。真ん中あたりにアルフォンス・ミュシャの絵が描かれた栞が挟まれていて、明らかに読みかけのものという感じでした。ページを開いて紙に触れると、母の指の温もりが伝わってくるようで・・・ああ、すいません、女々しいことを言ってしまって」

由紀夫 「女々しくなんかありませんよ。親友が1000人いても、自分を産んでくれた母は世界に一人です。よろしければ、お続けください」

悩む人 「はい。その本は1970年代に発行された中古本で、たぶんamazonか何かで購入したのでしょう。父も、母がそんな本を読んでいたとは知らなかったそうです」

由紀夫 「どんな本なのか、お教えいただけませんか」

悩む人 「石原慎太郎の『息子をサラリーマンにしない法』という題で、サブタイトルとして、我が子よ俺を越えていけ、とありました。中をパラパラめくってたら、余白の部分に母の字で書き込みがあったんです」

息子よ、なぜサラリーマンなんかになったの?学生時代の夢はどこへ?

悩む人 「これを読んだとき、母は僕の目の前にいました。僕は、僕は・・・何も言えませんでした」

由紀夫 「お父さんは何かおっしゃいましたか」

悩む人 「父もショックだったようです。というのは、父は典型的な昭和の猛烈サラリーマンで、出世しない男は人間のクズだと公言してはばからない出世主義者でした。そのことで母にかなり苦労をかけたのですが、30代で取締役に昇格した自分の夫には従うしかなかったのでしょう。息子にどんな職業を選ばせるか、ということで、ずいぶん激しい口論になったことがあったって、遺品の前で父が呟いてました」

由紀夫 「学生時代の夢というのが、労務関連のお仕事だったわけですか」

悩む人 「ええ。特に年金のことに詳しくて、母の老後に備えて、いろいろ教えてあげました。そしたら母が、アンタの説明わかりやすいね、社会保険の国家資格取って独立しなさい、応援するよ、って言ってくれて。あのとき素直にその通りの方向に進んでいればよかったんです。もう何言っても遅いですけどね」

由紀夫 「辛いことをお話しくださりありがとうございます。赤の他人にそこまで心情を吐露なさるのは、勇気の要ることですよ」

悩む人 「3回目も落ちたなんて、母に報告できません」

由紀夫 「よくわかりました。お母さまに対する思い、夢を実現できない自分への怒り、お父さまの出世主義への反発。じっくりお考えになれば、おそらくまだあるでしょう。試験に落ちたことが、産みの母との絆を自ら断ち切るような不誠実な行為に感じられ、ご自分を責めるお気持ちと、それから、当然誰にでもある、自分を守りたいという自己防衛の意識など、いくつかの相容れない感情、いやもっと深いレベルの認識かもしれませんが、とりあえず感情という言葉を使わせていただきますと、そういうものが心の中で錯綜し、混濁して、食行動という形で現れたのだと思います」

悩む人 「深夜ふと目覚めて、母の書き込みを思い出すんです。そうしたら、またコンビニに走って行って」

由紀夫 「私なりに、最大限のエネルギーを発揮して理解致しました。大食傾向から脱するにはどうすればいいか、具体的に考えましょう。まず、社労士試験に合格する、という目標をいったん脇に置きましょう。確か、合格率2%ぐらいですよね。そのような超難関資格の取得を前提にキャリアプランをたてるのは、かなり無理があります。グラついている土台の上にいろんな将来設計を積み上げていっても、目標に達する前に崩れてしまいますよ」

悩む人 「でも、社労士の資格は絶対欲しいです。心の中で、母に誓ったんです」

由紀夫 「試験にはこれからいくらでもチャレンジできます。もともとお好きな分野なのですから、勉強も苦にはならないでしょう。ただ、同じように資格を目指している人が全国にいますから。あせらず、落ち着いて、過去3年の反省をして、問題点を紙に書いてみてはどうですか。お父さまは、試験のことをご存じなのですか」

悩む人 「父には話していません。営業部門以外はすべて下働き係みたいな認識しかない人ですから」

由紀夫 「奥様を失われたことで、お父さまも意識が変わっている可能性があります。あなたが将来どうしたいのか、一度じっくりお話になってはいかがでしょう。その本は今どこにあるのですか」

悩む人 「私のアパートの部屋に置いてあります」

由紀夫 「お父さまも、例の書き込みはご覧になったのですね」

悩む人 「ええ。絶句してました」

由紀夫 「お母さまがご存命なら、たぶんご夫婦で一人息子のあなたの将来について、あらためて語り合ったと思います。私が思うには、お父さまは、あなたに何かお伝えしたいことがおありですよ。親子で一晩中でも語り明かしてみてください。きっと今までになかった新しい何かを発見できるでしょう。大食のことも正直に話してください。父親と2人でパスタのメガ盛を食べに行ったっていいじゃありませんか。あなたの食行動は、お母さまへの悔恨の念など、さまざま複雑な感情に対する代替的な反応です。親子で腹を割って語り合うことで、その大食傾向には何らかの変化があるはずです」

悩む人 「今度の週末にでも会ってみます」

由紀夫 「それがいいです。ああ、それから、お父さまにどう言われようとも、今の会社は辞めてください。失業のご経験は」

悩む人 「ありません」

由紀夫 「失業保険の受給手続きやら何やら、いろいろと勉強になりますよ。社労士試験にも生かせる体験となるでしょう。不治の病や不慮の事故・災害などを除けば、失業ほど辛いものはありません。今のうちに身に沁み込ませておくといいですよ。次の職場が見つかるまで、アルバイトでも派遣でも肉体労働でも、お金さえもらえるなら何でもいいですから、気分転換も兼ねて、今までとは別の汗を流してみましょうよ。思い切って、行動パターンを根こそぎ変えることで、煮詰まっていた状況を一気に打破できる可能性は大いにありますからね。悪い意味ではなく、全くの虚心坦懐な状態で、頭を使わない純然たる肉体労働でもやってごらんなさい。体を使うのを低次元の労働とさげすむ人もいるみたいですが、とんでもない、朝から晩まで筋肉を使い続けるのがどれほどたいへんなことか。職務経歴書には書かなくていいですから、心の中にだけしっかり刷り込んでおいてください。必ず役に立ちます」

悩む人 「学生の時、深夜にタクシーの洗車場でアルバイトしてたことがあります。ものすごく疲れて、大学の講義中ずっと寝てました」

由紀夫 「時間を戻すことはできないですが、自分を鍛えるのはいくらでもできます。どこかの経営者も言ってますが、挑戦し続けている限り失敗はないのです。おそらくお母さまのサラリーマン否定は、会社勤めが嫌なのではなく、組織に埋もれてしまわれることに対してでしょう。夫の出世主義への反感も手伝っていたかもしれませんが。新しい地平を自力で切り開いてごらんなさい。前向きに挑戦する姿に、お母さまも納得されることでしょう。さあ、まずはお父さまに連絡をとって、会う約束をしてください。アパートに帰ったら、すぐ辞表を書くこと。メシはその後にしてくださいね」

悩む人 「退職の理由を聞かれたら、何と言えばいいでしょうね」

由紀夫 「そんなの何だっていいのですよ。頭脳労働は向いてません、でも、夏目漱石全集を全巻読みたいから、でも」

悩む人 「太陽が暑いからとでも言っときましょうか」

由紀夫 「それはいい。実に文学的だ。どうです、またお腹空いてきまいたか」

悩む人 「父はえいのヒレで一杯やるのが好きなんですよ。僕もこれから干物でも買って、週末の予行演習をすることにします」

由紀夫 「また大食いしたくなったら、私を呼んでください。実はね、<スイーツパラダイス>で思う存分ケーキが食べたいんですが、女房も娘も、一人で行けって。ウチは冷たいんです」

悩む人 「僕もスイパラについてきてくれる人が欲しいです」

由紀夫 「それも親子で話し合うといいですね。孫欲しくないかって尋ねてみてはいかがですか」

悩む人 「お前、子供の作り方知ってるのか、なんて言われそうですよ」

由紀夫 「そしたら言ってあげなさいな、一人しか作れなかったくせに偉そうに言うなよって」

悩む人 「まさか、実技練習なんて言い出しやしないだろうな」

由紀夫 「実技の後のメシはうまいかも」

悩む人 「由紀夫さん、煽ってもダメですよ。もうメガ盛は卒業です」

由紀夫 「今度会う時は、実技のお相手の画像が見たいものですね」

悩む人 「考えときます」

由紀夫 「新たな地平を」

悩む人 「新たな自分で」

(了)

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です