素顔の自分と向き合う。その時あなたは

自己矛盾に陥らなかった人の言葉

ぼくにとっては、しかし「二足の草鞋」は存在しなかった。自分が生きていく上で、会社の業務と小説を書くことを比べた時、どちらがより本質的な仕事であるかについての答えはあまりに明確であったからだ。「小説」の草鞋一足だけをぼくは終始穿いているつもりだった。実際問題としては、生活の資は会社に求めねばならず、小説を書くための時間と体力をいかに工面するかについては苦労し続けたが、意識の中で両者が対等の力でぶつかり合っているのではないのだから、これは絶対的矛盾とはなり得なかった。

出典:黒井千次『働くということ』講談社 1982年刊

 

 

悩む人 「あらためてご説明した方がいいかしら。ワタシ、何だか頭が混乱してしまって」

由紀夫 「案ずるには及びません。あの文面でよくわかりました。つまりご主人は、会社の仕事と、大好きな学問と、相反するこれら2つを抱え続けていくのが困難な状態ということですよね。私の解釈、間違ってますか」

悩む人 「おっしゃる通りです。夫は来年で五十路に入ります。長男は高校受験、次男も塾通い、これからいよいよ本格的にお金がかかるという時に、立ち止まってしまったと申しますか、固まってしまったと申しますか、とにかく、一歩も前に進めなくなったんです」

由紀夫 「自分の素顔を大切になさっていることの証ですよ。食品メーカーの営業職とのことですが、差支えなければ、役職をお教えいただけますか」

悩む人 「<主任>です。係長の下でして、肩書としてはいちばん下にとどまっています。49歳ですから、部長クラスになっていてもおかしくないのでしょうけど」

由紀夫 「で、そのかたわら、古典文献の研究をなさっているのですね」

悩む人 「ええ。つい最近、『源氏物語』の口語訳を全巻完成させたと満足げに語っておりました」

由紀夫 「それは趣味の域をはるかに超えた偉業ですよ。お若い頃からその方面にご興味がおありだったのですか」

悩む人 「中学時代の芭蕉に始まって、高校3年の時、西鶴をほとんど暗記したそうです。ただ、大学は史学科でして、大塩平八郎を研究したのだとか。変わり者でしょ」

由紀夫 「言葉と正義を大切にする、感性豊かな方なのですよ。得意技がある人は、いざという時に強い。古典研究は毎日なさっているのですか」

悩む人 「いえ、週末は机に向かいますが、平日は残業や接待もあって、なかなか時間がとれないようです。ワタシもパートに出ている共稼ぎ夫婦なものですから、夫の時間への配慮までは」

由紀夫 「専業主婦の方が珍しいぐらいの世の中ですから、それはごく普通ですよ」

悩む人 「でも、会社の話をする時と、古典の話をする時とでは、表情も語り口も全然違うんです。もうほとんど別人みたいで。古典はワタシの理解を超えた世界ですけど、夫と話していると、そんなに楽しいならワタシも読んでみたいと思うくらいです」

由紀夫 「ご主人と面識はありませんが、目に浮かびますよ。好きな事について語る人には、共通点がありますからね。表情豊かで、目が輝いている。声のハリも違う。そうでしょう」

悩む人 「おっしゃる通りです。でも、それだけに、壁に向かって立ち止まっている今の姿は、見るに忍びないと申しますか、ワタシも辛いです。何とかしてあげたいのですけど」

由紀夫 「ご主人は、普通に出勤なさっていますか」

悩む人 「ええ、見かけだけは。子供たちの手前もあるのでしょう、気丈な様子を保とうと努力しているようです。でも、これが何年も続くと考えたら・・・」

由紀夫 「今の状態を続けると、心身共に弱っていくことが懸念されます。意に添わぬ仕事に悩んだ学究肌の人物は昔からいましたから。あまりいい例ではありませんが、福沢諭吉の父親がそうです。本格的な儒学者に師事した純粋な学究者で、商売に手を染めている自分に不満だったようですね。島崎藤村の父親も、家業のかたわら国学に打ち込んだ学者でした。いい例ではないと申しましたのは、この2人とも天寿を全うできなかったのです。特に藤村の父は悲惨な最期を遂げています。不安を煽るつもりではないのですが、自分の中に根源的な矛盾を抱え続けるというのは苦しいことです。とりわけ、ご主人のように、お子さんが受験生で、親としての責任が問われる立場だとよけいに辛いですよ」

悩む人 「お医者さんに相談すれば、って言ってみたのですけど、俺は病人じゃないって反発されまして」

由紀夫 「病人じゃないと言えるうちに、解決への道筋を見つけましょう。理想としては、働く自分と研究する自分、この双方をご主人が違和感なく受け入れるようになることですね。『源氏物語』の他にはどんなものを研究なさっていましたか」

悩む人 「文学作品は珍しいんです。よくわかりませんけど、思想家が好きなようでして、ええと、長男ができた頃だったと思いますが、名古屋あたりの古書店から、ナントカ集とかいう、かび臭い、漢字だらけの古書を20冊ばかり取り寄せて。それで貯金をはたいたと嬉しそうに言ってました。江戸中期の学者の手によるものだそうなのですが、誰だか聞いたこともない名前でした」

由紀夫 「それも目に浮かびますね。ここまでのお話で理解できました。ご主人の古典好きは、趣味ではないですね。報酬をもらっていないだけで、専門の研究者と遜色ない領域に達していると察せられます。しかしながら、経済学や法学など、ビジネスに応用可能な分野ではなさそうですから、仕事に役立てるのは難しいですよ。ただ、ではどちらを取るのか、という二択の問題ではないということ、奥さんはおわかりですよね」

悩む人 「ええ。どちらか選べるくらいのレベルなら、立ち止まって悩むことはないでしょうから」

由紀夫 「玄人跣の域に達している方ですから、それをやめるのは、完全な自己否定に直結します。何としても、今のまま、或いは今以上に、続けさせてあげてください」

悩む人 「ワタシがそう思っても、本人が」

由紀夫 「息子さんたちは何と」

悩む人 「子供たちも、お父さんは学者になった方がいいって言ってます。漢字の読み方から海の彼方の政情に至るまで、尋ねて答えてもらえなかったことはないって驚いてますから。学校の先生より教え方がうまいとも感心、いえ、感動していましたね。あ、すいません、身びいきなことを」

由紀夫 「それは理想的な親子関係ですよ。家庭がうまくいっていれば、解決は可能です。奥さんと子供さんが、学者としてのご主人の偉大さを十分認める、ということから始めましょう。お父さんスゴイ、といった程度ではなく、生活のためにサラリーマンをやってはいるけど、お父さんの素顔は古典研究家なんだよと、ハッキリ言葉にして伝えるのです。これからも研究を続けて、いつか学者として著作をものするぐらいになってほしいと、家族一丸となって応援すると意思表示してください。その次に、毎日机に向かえるよう、環境を整えてあげてほしいのです。奥さんとしては、家事もあるし、お子さんの進学のこともあるしで、部屋に閉じこもられては困るというお気持ちもおありでしょうが、日課のようにして学問と取り組むことで、ご主人の中で、研究者意識がさらに醸成されていくでしょう。ドイツ哲学の最高峰であるカントは、生涯、自宅と研究室の往復だったそうです。地道な日々の積み重ねこそ、偉大な業績の礎なのですよ。薄皮を重ねるように毎日毎日繰り返して、それがやがて誰にも越えられない城壁となります。そうなる日まで、奥さん、ご主人を支え続けてあげていただけませんか」

悩む人 「ワタシも子供たちも、机に向かっている主人が好きなんです。パートで疲れてしまう日もありますけど、がんばって支えになろうと思います。子供たちも、その方が喜ぶでしょうし」

由紀夫 「サラリーマンたる自分をよしとしないという思いはあるでしょう。でも、糊口を凌ぐのは人間生活の基本であり、定収入を得るのは納税者の義務です。このことも理解してもらってください。社会的な存在としての自分を否定させてはなりません。混じりけの無い<素>の自分と、社会的に義務を果たす自分。この両者を認めさえすれば、あとは日々の積み重ねで勝負できますよ。家族がひとつになれば、ご主人は立ち止まり状態から解放され、マイペースで再び歩き始めるでしょう」

悩む人 「ワタシ、やります。主人は古典研究が好きで、ワタシたち家族はそんな主人が好きです。夫を中心に好循環が生まれるよう、がんばってみますね」

由紀夫 「奥さんがそこまでご理解なさっていれば、ほとんど解決したようなものです。ご主人がお疲れでなく、お忙しくもないタイミングを見計らって、切り出してみてください」

悩む人 「ワタシが本格的に働いて、夫が家事をしつつ机に向かう、ということも考えたりしたのですけど」

由紀夫 「それは良くないですね。家計が成り立つかどうか保証はないし、家庭のことで煩わされて、ますます自分の時間が保てなくなる恐れがあります。生計の道を歩きながらも書を手放さない、という、二宮尊徳のような姿が理想ですよ」

悩む人 「あなたは既に王道を歩いているのよ、って言いましょうかしら」

由紀夫 「結びの言葉としては最高です。奥さんも、言葉の力を信じていらっしゃるようですね」

悩む人 「夫から言霊をもらったのかもしれませんわ」

由紀夫 「私も今、しっかりといただきましたよ」

(了)

 

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