文学とは、職業に成り得るのか

【純文学について、或る有名作家の意見】

・・・純文学ていうのは、オモロないもんなんですわ。

宮本輝の言葉:2016年3月20日(日)ホテルオークラでの講演会にて

 

 

問う人 「文学とは、職業に成り得るものなのでしょうか」

知る人 「何だね、いきなり。メールに書かれていた質問と全然違うではないか」

問う人 「あれはテキトーに書いたんです。本気で答えていただきたいのはこれなんですよ」

知る人 「なるほど。私が文学方面に暗いことを知っていて、あえて問うのかね」

問う人 「それもありますね。さあ、お互いに暇じゃないんですから。あらためて尋ねましょう。文学とは、職業に成り得るものなのか、成り得ないものなのか」

知る人 「浅知恵を総動員して応じよう。文学とは、芸術の一様式を指す言葉だ。芸術家という職業があるのだから、文学でメシを食っている者がいてもおかしくないわけだが、これが君の期待する回答でないことは明らかだな」

問う人 「よくお分かりだ。その程度しか言えないなら、今すぐ知者の看板を下ろしていただかないと」

知る人 「これは天命だから下ろせないね。いきなり私事から始めるのは主義に反するのだが、きょうは特例とすることにしよう。私が大学4年生の時、就職先の候補として、紀伊国屋書店の会社説明会に参加した。人事担当者の説明が終わった頃、男子学生が手を挙げて質問したんだ。読書好きな社員が多いのですか、と。これに対して、人事担当者は、当然のようにこう答えた。

本も商品ですから。

・・・読書好きと思われるその学生は、黙ってしまった。人事担当者の言葉は、君への回答にも成り得るものと言えるだろうな。高尚な学術書であれ、流麗なる文学作品であれ、価格というものがある以上は、需要と供給という市場原理の枠からはみ出しては存在し得ない。芸術とは<美>の概念を強力に含むものだが、美しいものを求める心に対して無償行為で応じれば、芸術は単に作品であって、商品にならない。価格が価値を表すのだとすれば、純粋芸術は無価値ということになってしまう」

問う人 「そのお話は、少しづつでも核心に迫っているのでしょうね」

知る人 「黙って聞きなさい。<医は仁術>という言葉があるだろう。今このような医師などいないが、かつてはいたんだな。維新前、医師が病人や怪我人を診るのは無償労働だという認識が当たり前だった。さっきの話で言えばだな、高度な専門知識に支えられた自分の労働力に価格がつかなかったわけだ。では、当時の医師はどうやって生計を立てていたか。君、わかるかな」

問う人 「医学史には関心がありませんので」

知る人 「薬だよ。調剤薬局など無い時代だからな。医師が薬を出していた。患者は、それに対して金を払った。要するに、薬代でメシを食っていたのだな、当時の医師は。ところが医薬分業という考え方が出てきた。医師たちがそれに猛反対したのは理解できるだろう。医療行為は無価値とされていたのだから、分業は即ち廃業を意味する。当時の日本は貧しかったから、患者側も強い違和感を覚えたようだ。何が言いたいかというとだな、タダで患者を診るのは日本の医師の美徳だったか。さにあらずだ。薬で儲けることを世の中は承知していた。ティッシュペーパーをタダ同然の捨て値で売るドラッグストアみたいなものだ。医薬品や化粧品でちゃんと儲けている。昔の医師が商魂たくましかったと言いたいのではない。<仁術>のようでいて、実は需要と供給の均衡は無視していなかったということだな」

問う人 「文学もそういうものだと」

知る人 「文学もまた然り。市場原理の枠外に居続ける、つまり、需要と供給の均衡を無視するということになれば、自費出版しかないだろうな。ただしこの場合、芸術家と出版業者との間では市場が機能しているからな。芸術作品を世に広めようとすると、どうやっても、何らかの市場に接近せざるを得なくなる。金銭の授受を全く伴わない、どこまでも汚れ無き芸術は成り立たないね」

問う人 「それなら、昔から純粋芸術はなかったということになりますよね。かつて芸術家にはパトロンがいたんですから。つまり、大昔から芸術家は職業人だったと」

知る人 「過去に遡って全芸術家がそうとは言えんがね。作者未詳とされる『竹取物語』を見ろ。無学な百姓が書いたわけがない。地位と学のある人物が作者なのは明らかだ。当時のことだから、書く前にまず紙を確保することさえ楽ではなかっただろうな。暮らし向きに余裕のある者でなければできないことだ」

問う人 「つまり、『竹取物語』を書いたのは職業作家ではない、と」

知る人 「そうだ。商品として書籍が流通していなかったとはいえ、功名心が少しでもあれば、作品に自分の名を残そうとしたはずだ。職業意識が微塵も無い人間でなければできないことだよ」

問う人 「インターネットでもそうですよね。罵詈雑言として言い放つ時は匿名ですけど、自らの知見や見識を認めてもらいたい場合は実名を公表しますもの。巧みに世を渡る奴が笑うんですよ、いつの時代も」

知る人 「その厭世的な言葉の裏には何かあるね。隠さず言ってしまいなさい」

問う人 「無礼な質問をしてすいませんでした。実は僕、小説家志望なんですが、いくら書いても認めてもらえないんです。それで、つい」

知る人 「職業としては否定したくなったのだね。気持ちはわからないでもない。今の時代、出版社に持ち込もうとしても門前払いだろう。いくら書いても、というのは、新人賞に何回応募しても、という意味だね」

問う人 「ええ、そうです。『群像』とか『文学界』とか、純文学系に絞っているのですが・・・でも、でもですね、受賞作を読むと、こんな奴より僕の方が上だ、と思って、悔しくて」

知る人 「選考はどのあたりまで残るのかね」

問う人 「わからないです。少なくとも、最終候補作に残ったことはありません」

知る人 「なるほど。下読みの段階で叩き落されているかもしれないね。自称小説家は全国にごまんといるからなあ。プロへの登竜門とされている有力な新人賞で、何度も最終候補に残った実績のある、言ってみればあと半歩でプロになれるような実力派もわんさかいる。プロ野球を見なさい。学生時代に剛腕で知られていた投手が、自慢の決め球をあっさりとスタンドに運ばれる。学生横綱出身者が大相撲入りするとどうだ。プロでも綱を張ったのは輪島ぐらいなものだ。文芸作家としての君の実力は知らんが、少なくとも、商業出版の世界では力不足と言うしかなかろうね」

問う人 「読んでいただこうかと思って、作品を持ってこようとしたんですけど、途中で気が変わりまして、家に置いてきました」

知る人 「その判断は正しい。最初に言った通り、文学方面にはとんと暗くてね。君の作品を批評するほどの能力もセンスも私には無いよ。君はもうすぐ40歳だそうだが、独身かね」

問う人 「ええ。結婚に興味がないわけではないんですけど、縁がないといいますか、その」

知る人 「仕事は何をしてるのかな」

問う人 「下着メーカーで営業やってます」

知る人 「役はついてるのかい」

問う人 「係長なんですけど、他にも同じ肩書がやたら多い会社ですから、まあ、ヒラみたいなものです」

知る人 「歌手で作曲家の小椋佳氏は元サラリーマンだが、大手都市銀行の支店長まで務めた人だ。サラリーマンから作家になって成功した人物は、勤め人としてもある程度の地位まで昇ったか、或いは何らかの貴重な体験を経ている。君が応募した雑誌もあくまで商業誌だからな、売れないものは扱わんよ。ただ、市場は狭いがね。兼業作家で言えば、南木佳士氏は知ってるだろう。彼は内科医の仕事のかたわら、せっせと書き溜めては編集者に送っている。ある時のインタビューでこう言っていたな。医業と文筆業のどちらかに絞れと言われたら医を取るとね。彼の作品に個性があるのは、本業への誇りを持つが故だろうね。何が言いたいかというとだな、君はまず本業を確立しなさいということだ。ひと口に営業マンと言っても実際には千差万別だが、君のさっきの言い方には、業界人たる誇りが全く感じられなかった。天竺編みとフライス編みと、手触りだけで判別できるかね」

問う人 「たぶん、できません」

知る人 「綿番手の違いなどもわからんのだろう。自分の仕事に興味を持つことから始めてみてはどうかな。失礼ながら、その年齢で管理職経験無しならば、転職しても今よりいい稼ぎは期待できん。地惚れの精神とでも言うか、現状に全力を尽くすのが先だろうな。小説家に限らず言えることだが、特殊な分野で成功する人というのはね、多くの場合、特殊ではない一般的分野の出身者なのだよ。何らかの職業を経験して、職業人として人を観て、業界人として社会を観ることができたのだな。要するに、世の中を判別するための<眼>を別に持っていたのだね。職業人ばかりではない。学生は学生の<眼>で世間を観ているだろう。主婦には主婦の<眼>がある。学生や主婦が小説を書いて賞を取るのはそういうことなんだ。今の会社が嫌いではないのだろう」

問う人 「好きでも嫌いでもない、っていうのが正直なところですね」

知る人 「世の中の大勢がそうだよ。君と違う点があるとすれば、多くの人が家庭を築く。足場の確保だな。そういう意味では、君は軸足が不安定とも言えるし、同時にどこにでも軸足を移動できる自由があるとも言える。モノは考えようだ。結婚に興味がないことはないとさっき言ったね。例えばだな、結婚相手を紹介するサービスがあるだろう。ああいうのを徹底的に活用して、婚活体験を積むんだよ」

問う人 「それをベースにして作品を書け、とおっしゃるのですか」

知る人 「違う。何かを産み出す人の頭の中というのは、混沌としているものなんだ。君の場合、思考回路が整然とし過ぎていると私は思う。だから、さまざまな情報を注ぎ込んで、思考回路を破壊した方がいい。ただし、まずは下着屋としての自分を確立してからだよ。よほどの天才でない限り、夢も希望も、すべては判で押したような日常の先にしかないものなのだ。当たり前の日々を、愚直に積み重ねていくんだね。そうすれば、なぜ新人賞がとれないのか理解できるようになるはずだ。凡庸な頭数に徹しなさい。必ず何か掴めるから」

問う人 「普通の人になれ、というか、今までもそうでしたから、より強くそれを自覚せよ、と」

知る人 「純文学がそうだろう。特殊な人間を描いた作品など稀だ。珍しい職業人を登場させたとしても、描かれるのは、その職業人としては当たり前のことばかりだ。まず背景に溶け込む。人物として浮き立つのはそれからでいい」

問う人 「凝固する前にまず溶解せよ、ですね」

知る人 「溶けて浸透しても良し。油のように滲み出てゆく方がいいかもしれないね」

問う人 「油汚れは落ちませんからね」

知る人 「下着屋の<眼>だよ、それも」

問う人 「目指します、普通の人を」

知る人 「伴侶もそういう人を」

(了)

 

本記事により、ひとつの深い疑問が抽出されます。題して、

読書=娯楽、ではダメなのでしょうか・・・

合わせてお読みください。

 

 

 

 

 

 

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