うつ病の息子。それを護ろうとする母親
息子 「部長は帰ったの」
母親 「部長って」
息子 「さっきまで玄関にいただろ。休職中でも訪ねてくるんだから、職務に忠実というか、マメな管理職だよね」
母親 「玄関にいたのはお隣のご主人だよ。旅先でおいしい佃煮を買ってきたとおっしゃってね、いただいたの。アンタ、佃煮は好きでしょう。ホラ」
息子 「ああ、ワカサギじゃないか。これが一番好きなんだ。うれしいな」
母親 「ちょっと元気でてきたみたいだね。休職期間も30日、ちょうど半分過ぎたけど、どう。具合は」
息子 「あと30日で現場に復帰しなきゃいけないんだね。売れもしない下着をセールスして回らなきゃならない。どうです、ウチの商品は、100回洗濯しても、ホラこんなに生地がしっかりして・・・ああ、また心にもないデマカセを並べ立てて、得意先と空疎な会話をしないといけないんだね。ああ」
母親 「あと30日じゃ少ないかもね。追加申請したらどうなの」
息子 「有給休暇の未消化分と、休日出勤の振り替え休暇で平日を埋めたら、ピッタリ60日になったんだよ。これ以上休むと、まあ、休めなくはないけど、欠勤扱いになるだろうね」
母親 「病気を治すのが先でしょう。60日が120日に増えても、元気になるのが最優先だよ。ね、思い切って、長期休暇の申請しなさいな。何だったら、お母さんが代わりに」
息子 「よしてよ、みっともない。僕はもう30歳なんだよ。自分でできるよ。ただ、きょうはそっとしておいてほしい。ものすごく気分が悪いんだ」
母親 「顔色良くないものね。お薬は」
息子 「さっき、昼の分を飲んだところだよ」
母親 「とんぷくがあったでしょう。具合の悪い時は飲みなさいって、先生が」
息子 「全部飲んじゃったんだ」
母親 「次の診察はいつだっけ」
息子 「まだ2週間ある」
母親 「そんなに長く、とんぷく無しでいられるの。お母さんがもらってきてあげようか」
息子 「だからそういうのやめてほしいんだってば。だからマザコン主任だって陰口たたかれるんだ」
母親 「とにかく、佃煮食べてゆっくりなさい。お茶入れるから」
息子 「僕は最低のビジネスマンだよ。佃煮食ってお茶すすって。そんなことしてていいんだろうか。営業マンなのに、営業利益の計算もできない、原価率もわからない、商品のセールスポイントすらまともに説明できない。最低だ。僕は最低なんだ。何でまだ生きてるんだろう。何であの時死ななかったんだろう」
母親 「深く考えるのはやめにして、さあ、ワカサギ全部食べていいから。ね」
母親 「ずいぶん長く部屋にいたね。きょうはすごくいいお天気よ。たまには外に出てみたら」
息子 「醜態だよ。こんな明るい時間に外出なんかしたら、恥が服着て歩いてると思われる。僕は最低の人種だから、目立たないようにしなきゃいけないんだ。道路も真ん中を歩いてはならない。いつもそんな声が聞こえるんだ。立派な社会人さんたちの邪魔にならないよう、道の端を控えめに歩きなさいって」
母親 「誰もそんなこと言わないよ。さあ、日が暮れないうちに、出かけといで。そうそう、駅前の古いビルを取り壊してたでしょう。あそこ、100均とファミレスが入ったよ。見に行ってごらん」
息子 「僕も100円で売れないだろうか。ああ、そういえば、ブラックサンダーチョコは、別の100均では4個100円だったなあ。あれで4個ってことは、僕なら10個100円か。僕は駄菓子以下だ。ねえ、母さん、僕はね、机でも椅子でもペン立てでも何でもいい、とにかく人間ではない、生物ですらない、純然たる<物>になりたいんだ。しばらくの間、人間であることをやめて、物になって、ひっそりと暮らしたいんだよ。死にたいとは言わない。ただ、人間をしばらくお休みさせてほしい。ああ、誰に頼めばいいんだろう」
母親 「文学的な、詩的な表現だね。アンタ、昔からセンスあったもの。悩むのは悪いことじゃないのよ。今ワタシに話したこと、文章にしてみたらどうなのかな。いい作品に仕上がるかもよ」
息子 「悩むのは悪くないの」
母親 「全然普通だよ。アンタを精神病みたいに言う周りがどうかしてるんだって。診断ではうつ病だけどさ、アンタのはもっとレベルが高いよ。アカデミックな悩みなんだから」
息子 「人間は悩んで当然だよね」
母親 「そうよ。アンタは正しい。他が間違ってるのよ。世の中を見渡してみなさい。何にも考えてない浅はかな輩がウヨウヨいるでしょう。アンタみたいに高尚な人間なんか滅多にいやしないのよ。今の仕事が合わないなら、他を探せばいいわ。思慮深いアンタにピッタリの職場がきっとあるから」
息子 「しばらく人間を休みたいっていう僕の心情を理解してくれる人のいる職場」
母親 「必ずあるって。いっしょに探そうよ」
息子 「精神は肉体を上回るんだよね。そうだよね。僕は間違ってないよね」
母親 「自信を持とうよ。元気出して」
息子 「カラ元気なんて、中身のない愚か者のやることだよね。悩んでいていいんだ。僕は高等な生き物なんだから」
母親 「自信を持とう」
息子「朝の来ない夜はないって言うけど、僕は夜だけでもいい。思慮深くありたい」
母親 「うん、それこそ生きてる証拠」
(了)
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