テレビを見ると、バカになる
【最近、テレビ番組の質が落ちたように感じられてなりません。バラエティだのなんだのと、どの局もくだらないバカ騒ぎや悪ふざけばかり。いったい、いつからこんなことになったのでしょうか…】
問う人「テレビを見るにつけ、この国の未来が憂えてなりません」
知る人「君の質問には、 最近 とあるが、昔のテレビはもっと上質な番組を放映していたという認識かね、君は」
問う人「まあ、今よりはよかったのではないかと」
知る人「なるほど。君、昭和30年代或いは40年代頃の一家だんらんがどんなふうだったか、想像できるかな」
問う人「ええ、できます。だいたい、テレビのある部屋に家族全員集まってましたよね」
知る人「そう。テレビを見ながら食事するという習慣は、その頃すでに形成されつつあった。それより前、まだテレビの無かった時代だな、だんらんの中心には何があったかね」
問う人「ラジオでしょう」
知る人「その通り。娯楽の不足していた時代の家庭生活の形として、音声や映像のまわりに集まるというのは、ずいぶん前から一般化していた。マスメディアに洗脳される下地はすでにあったわけだ」
問う人「つまり、テレビやラジオは昔から低レベルだったと」
知る人「低い、という表現を使うと、少々わかりにくいかもしれんね。まあ、要するにだな、娯楽の少ない時代から、今のような娯楽だらけの時代に向かうにつれて、テレビ番組の中にちりばめられた刺激物の量が増え、毒と言えるほどの量にまで達してしまったのだな。辛いモノ好きの人をみてみればわかるだろう、彼らはより辛いモノを口にしたがるね。テレビ番組を見て楽しければ、次はもっと楽しい番組を見たがるものだ。何だってそうだろう」
問う人「欲を言えばキリがないってことですね」
知る人「そうだな。それに、制作者側は視聴率第一だからね、次はさらに多くの人が見てくれそうな内容にしなければならぬ。そうやっていくうちに、倫理観や人道主義、勤勉な生活態度などがじゃまになり、何でも笑い飛ばしてしまうような風潮が支配的になったのだろうな」
問う人「おもしろければ何でもいいってことですね」
知る人「そう。その 面白い にしてもだな、どんどん質が落ちている。生活の中で、<笑い>というものが軽んじられているのだな。わかるかね、マジメに生きていると、たまにフッと息抜きしたくなることがある。そんなとき、<笑い>というのは実に有効な気分転換になるね。そこで、寄席に行ったり劇場に足を運んだりして、庶民は生活にメリハリをつけようと工夫していたのだ。だが今のように、下積みの苦労が忘れられ、何でも促成栽培で済ませてしまう結果主義的風潮が支配的になれば、笑いはもはや生活の一部ではなくなる。外部から購入して調達する<商品>と化したのだ。現代に生きる私たちは、ほとんど無意識のうちに、かつては自己の中でじっくり時間をかけて醸成していたものを、金で外から調達するようになったのだね。楽しむ、という感覚もそのひとつだ。店先に並ぶ品を選ぶように、楽しみをつまんで買い物袋に放り込んで事足れりとしているのだよ。こうなってしまえば、制作者側は楽だろうな。どんな内容であってもすべて<お客様のため>というスローガンのもとに強行できるからな」
問う人「しかしそれは、ジャーナリズムの姿勢ではありませんよね」
知る人「テレビはジャーナリズムではない。単なる娯楽装置に過ぎぬ。新聞のテレビ番組表をみたまえ。一日二十四時間、朝から晩まで番組が数珠つなぎだ。あれだけ垂れ流していれば、個々の企画の質が落ちるのも当然だな。まあ、言ってみればだな、週刊誌などの使い捨て雑誌と同じだよ。くだらない話題を次々と掘り起こして全国にばらまいて終わり。番組に出ているタレントたちの呆けた顔をみるがいい。彼らも使い捨て商品のひとつなのだ。芸を磨くなどの精神は霧消し、かわりに自分を切り売りするという刹那的・自虐的な姿勢だけで糊口を凌いでいる。なんとあわれな人種だろうね」
問う人「末期的状況と言ってよいのではありませんか」
知る人「そうだな。だが、低レベルな番組を垂れ流す現状を真剣に憂える声があまり聞こえてこないだろう。とりわけ為政者たちから。なぜだかわかるかね」
問う人「さあ。他に難問をいっぱい抱えているから、テレビどころではないのでしょう」
知る人「さにあらずだ。その背景には、娯楽の低質化などよりはるかに深刻な病巣がかくれているのだ」
・・・以下、次回へ続く。
1828字。50分。