私人って誰
【政財官界など、地位のある人たちが言う、或いは周囲に言われる<私人としての某><公人としての某>という区別、よくわかりません。ひとりの人間に、公私の別が必要なのか。教えてください】
知る人「君の言うのは、例えばどんな場合だね」
問う人「今で言えばですね、あと少しで終戦記念日がきますでしょう。政治家の靖国参拝でマスコミがよく『大臣、今回の参拝は公人としてですか、それとも私人としてですか』などと尋ねますね。あれなんか、典型的な例かなと」
知る人「いつだったか忘れたがね、石原慎太郎氏がそう尋ねられ、マイクを向けたマスコミ人を一喝したことがあったな。相手からどんな言葉を引き出したいのか知らぬが、愚人菌を電波に乗せてまき散らそうとしているとしか思えぬ。君ならどう答えるね」
問う人「そうですね、政治的立場への感情移入は難しいですが、あえて言えばですね、何をしようが自分は自分だ・・・ですかね」
知る人「端的に言えばそれしかあるまいね。<公私の区別>という厳格な問題が、昨今よく言われる<オンとオフの切り替え>などの軽薄な表層コトバと混同されている。例えばだな、医者が誤診した場合、まあ、その内容や結果によりけりではあるが、騒ぎが落ち着くころに聞こえてくるのが、
『医者も人間だから』
・・・当の医者に逃げ道を作ってやるにとどまらず、これは、全ての人間に逃げ道の場所を教えようとしているようなものかもしれぬ」
問う人「人間とはかくも弱き者、ということですか。使い古された一般論としか思えないですが」
知る人「それだけではない。ここには、<公>と<私>の均衡を保とうとする強引な姿勢が見て取れるのだよ。おおやけのアナタだけじゃ疲れますよ、わたくしのアナタも大切にしなきゃ、という、戦後民主主義・個人主義の負の側面が現れている」
問う人「エコノミック・アニマルと称された時代の反省もあるのでしょうか」
知る人「そんなものはない。根底にあるのは、おそらく、欧米型の生き方と、<公>が圧倒的に強かった戦前への反省とがいびつに結び付いたものであろう。平たく言えばだな、わたしたち日本人も、ようやく生活を楽しむ民族になりました、欧米の皆さん、日本人は変わりました、と媚び諂う姿勢=21世紀型植民地根性と表現するのが正しかろうね。<私>が幅を利かせるようになれば、欧米もアジアも安心するのだな。<公>=国家 が控えめにしか表に出なくなるからね。極東の能天気な民、というのを演じている方が、現代日本人にとっても楽なのだよ。世界を敵に回さぬよう、常に諸外国の顔色を窺う。貿易問題も、領土問題も、皇室に対する侮辱も、なにもかも、嵐の如く通り過ぎるのを待つ。そうやって問題を先送りし、臭いものに蓋をし続けて、次世代へ負の遺産を残していくのだな。それも、雪だるま式に巨大化して手に負えなくなった化物をね」
問う人「そうやっていって、やがて日本は滅びるのでしょうね」
知る人「そうだ。最初の話に戻るがね、公私を同列に論じるというのは、議論の切り口としては有効だが、それで現実を動かそうとするところに無理があるのだ。確かにヒトは私人としてこの世に生を受ける。かみしもを身にまとって生まれる人間はおらぬ。だが、生まれた後どうなるか考えてみよ。役所に届け出て、日本国民として、地域住民として登録する。氏名も正式に決まり、どこの誰というのが公的に認められるのだな。これを何と称するか。私人か。否。公人である。つまり私たちは、生まれたとき既に公人としての資格を与えられ、その瞬間から義務が始まる。無人島や広大な焼け野原で孤独に生きるのでなければ、私たちの生涯は公人として始まるのだ。人間の自由を強調する向きもあるが、それはあくまで理想論に過ぎぬ。ただ、四六時中<公>に縛られていたのでは息が詰まるから、<公>の圧力を跳ね返そうと<私>が巻き返しに出る。そうやって公私のせめぎ合いが始まって、社会に車の両輪が生まれる。何だかわかるかね」
問う人「<公>と<私>という輪ですね」
知る人「もちろんそうだが、その根底に何があるか、もう一歩踏み込んで考えてみよ。そこにあるのはだな、<義務>の輪と<権利>の輪なのだ。この両輪が正しく機能してはじめて人生も社会もうまくいく。だがこれは、両輪が均衡を保つという意味ではない。便宜上、両輪という表現を使ったのだが、実はこれは正確ではない。今はより近い語彙が思い浮かばぬから許していただきたいのだがね。義務の輪の方が強いのだよ、圧倒的にね。人生とは義務を果たす時間、と言ってもいいくらいなのだ。だが、必ずそこには『もっと人間らしく』とか『人生を楽しもう』とか、果ては『人間は楽しむために生まれてきたのだ』などと自己中心的発想が湧き出てくる。大方はこれに靡いていき、自分を見失うと同時に、権力の側にすっぽりと取り込まれる。江戸時代と何ら変わらぬ愚民の誕生だな。しかし一方、義務・権利の二元論から脱出を図ろうと必死に努力し闘う者が現れるのだな。こういう人たちは、同じ二元論でも、絶対やりたい、と、絶対やらねばならぬ、という、より実践的二元論へと頭の中で変換して理解するようになる。こうなれば次に来るのは、公私の区別がいかに無意味であるか、そして、その根底に潜む公人としての自身の無さ、誇り低き現代職業人気質という病根を払拭することの重要性に目覚めることだ。自分が社会で立つことができているのは、どの足のおかげなのか。それは、公人としての足である。義務に牽引され、やがて従来型二元論を克服する<新しい自分>を支える足なのだ。邪魔者を蹴散らすことができるのも、義務に培われた脚力があるからこそなのだよ。公私の区別とは要するに、誰とも戦いたくないという逃げの姿勢のもっともらしい変形型と言えばよかろうね」
問う人「つまり、自信があれば堂々としていられる、公も私もあるものか、自分は自分だ、と、いい意味で開き直れるということでしょうか」
知る人「まあ、そんなところだな。公人が現代のように小粒化してしまった要因はいろいろあろうが、大まかに言えば、商業主義とサラリーマン根性に大別できるかもしれぬ。が、これは次世代の我が国を論じる上でのもっとも大切な要諦であるから、ここで論に含めることは避けよう。またあらためて論じたい」
問う人「では、今回の結論としては、公私の区別など不要、というところに落ち着きますか」
知る人「不要だ。ただ、これと公衆道徳を混同してはならぬぞ」
問う人「ええ、それはわかりますよ。そこまで愚かではありません」
知る人「結構。堂々と自分の道を進みなさい」
(了)
2710字。120分。