脳疾患ほど怖いものはない
【86歳の父が脳梗塞で倒れました。一命はとりとめましたが、右上下肢に麻痺が残り、今は特養の空き待ちで、その間は老健と有料を交互に利用して凌ぐ予定です。命は助かりましたけど、脳って本当に怖いな、って思います】
知る人「86歳ということは、昭和一桁だね。倒れるまでのお父上は、どんなふうだったのかな」
問う人「高血圧はもうずっと前からで、血糖値も高くて糖尿病の一歩手前でした。大食漢で大酒飲みでしたから、いつか酷いことになるんじゃないか、と母も心配して、栄養指導を受けさせたり、リハビリ付きのデイサービスに通ったりと、いろいろやってたんですけど、ダメでした」
知る人「時々、面会には行ってるのかな」
問う人「ええ、私と妻と母が、入れ替わり立ち替わりで。最初はショックで落ち込んでましたけど、最近少し元気が出て来てホッとしてるところです」
知る人「脳梗塞の後遺症を抱える父親と、今後どう向き合っていけばいいのか、悩んでいるのかな」
問う人「そうなんです。私も50歳を過ぎまして、公私ともにさまざまな問題を抱えつつ日々を過ごしています。施設の利用料金は私が半分、父と母の年金から半分。本当は私が全額払いたいところですが、何せ年俸が低いものですから…」
知る人「半分でも立派な心掛けだよ。滞納して平気な家族だっているのだからね。まあ、お父さんは一日も早く特養入りできれば一番いいのだがね。都会は千人以上の空き待ち、辺鄙な地方はガラガラ、という両極端が目立つようだが、君は都会で探しているのかな」
問う人「ええ、父が都会育ちで、田舎は絶対イヤだと言い張るものですから」
知る人「なるほど、よくある話だね。老人ホームと言っても、老健はリハビリして在宅復帰を目指せるが、有料は在宅扱いされていることからもわかるように、終の棲家として活用されている場合が多い。のんびり余生を送る分にはいいが、ほんの少し前まで普通に家に居た人にとっては退屈で物足りないとも聞く。お父さんは、お幾つまで現役で働いていたのかな」
問う人「75歳を過ぎてようやくリタイアしたんです。典型的な仕事人間でして」
知る人「それならなおのこと、退屈な日々を過ごしているだろうな。息子として君がやるべきことは、大きく分けて二つだ。まず、ボケさせないこと。次に、体がなまらないように工夫することだ。脳疾患は、認知症を誘発することがある。そうでなくとも、ただでさえ、施設の暮らしは単調になりがちだ。話すことをやめ、考えることをやめれば、あとはボケ老人への道をまっしぐらだからね。体の方は、右麻痺なら左が使えるだろう。初めはかなり不便すると思うが、慣れてくれば片手でかなり多くの動作ができるようになる。牛乳パックにストローを刺したり、カップ入りヨーグルトの蓋をはがしたりも、訓練すれば片手でできるのだよ。右が使えないと嘆くのではなく、左は使える、と元気を出すよう、周辺の環境を整備してあげる必要があろうね。動かない方は放っておいて、動く方を徹底的に鍛えるべきだな。大敵は中途放棄だ。やる気を失えばすべてが元に戻る。目標を掲げて努力する姿は、周囲にもいい影響をもたらすものだ。施設内の他の利用者さんたちが、君のお父さんを見習うようになればしめたものだ。そこから好循環が生まれ、少なくとも精神的には何も問題がなくなるだろう。まあ、そこまで持っていくのはけっこう大変だろうがね」
問う人「自分を育ててくれた父ですからね、最後の最後まで面倒を見たいんです」
知る人「けっこうだ、頑張りなさい。ところで君、自分自身の健康管理はうまくいってるのかね」
問う人「実はあまり…。動脈硬化だの何だのと言われていまして、薬を飲んでいます」
知る人「生活習慣の改善が必要だ、と医師に言われただろう」
問う人「言われました。管理栄養士の栄養指導も定期的に受けてるんですが、どうも、何と言うか」
知る人「身が入らぬのであろう」
問う人「おっしゃる通りで」
知る人「父を思うほどには、我が身を思っておらぬようだな。動脈硬化というのがどんな症状なのか、たぶんくどいくらい聞かされたはずだが、お父さんも早い話がそれなのだよ。血管が詰まって脳に血が回らなくなる。血液は酸素やら栄養素やらを運搬する重要な役割を担っている。それが行き届かぬということはだな、脳のエネルギーが枯渇するわけだな。脳が停止すると、私たちはどうなるね」
問う人「死にますよね」
知る人「そうだ。脳梗塞の後遺症は、活動停止した部分が再起動してくれないから起こるのだな。そのすべては、血管内を血がうまく流れなくなったところから始まるのだ。君の場合、着実に父親の後を追っていると言わねばならぬ。親子は似るものだが、疾患まで似ずともよかろう。せっかく父親が反面教師として実演してくれているのだからな、息子ならばそこから学ばねばなるまいね。いい機会だ、食事、運動、睡眠、排便、余暇の過ごし方等々、生活を根こそぎ見直しなさい。父親への愛を、何割か自分自身に振り分けることだな。子供はいくつかな」
問う人「26歳の娘がいまして、先日、フィアンセをうちに連れてきたところです」
知る人「なるほど。では、数年後には孫を抱いて散歩する日々が来よう。片腕しか使えねば、ダッコすらできぬ。それでいいのかね」
問う人「・・・すぐ生活を見直します」
知る人「けっこうだ」
(了)
2190字。