消費者教育について考える
【私たちが ”消費者” と呼ばれるようになって数十年過ぎたかと思います。今までこの『消費とは何か』について、真正面から教わった記憶がありません。消費生活が日常の基本である以上、学校できっちり教えるべきではないでしょうか。】
知る人「君の職業は何だね」
問う人「食品メーカーの営業マンです。消費者関連の窓口にいるとか、消費者寄りの業務をしているわけではないのですが、公私に渡って以前から気になっていたことでして」
知る人「最近の学校教育がどうなっているのか、私も知らぬ。が、まともな消費者教育をしていないのは間違いなかろうね。我が国では、いまだにお金を汚いものと信じ込ませるような風潮が残存している」
問う人「私たちは毎日何かを消費して暮らしますし、食材などを買いに行きます。山里で自給自足の暮しでもしない限り、消費行動と無縁ではいられません。それなのに、まともな消費者教育の機会を得られない。おかしいと思うんですね」
知る人「モノは買う。メシは食う。買いだめして冷蔵庫にしまう。賞味期限切れを見つけては捨てる。壊れたモノは、修理するよりは買った方が早いし安上がりだ。そうしてまだ使えるモノをゴミというレベルに格下げする。このような暮らしを、生まれたときから当たり前と思って成長するのが現代人だな。所与として、それを議論や考察の対象から外している。もちろん、消費者教育の必要性を叫ぶ者はいるし、消費者庁という役所もできた。だが、あまりに身近過ぎるのか、あらためて学ぼうという姿勢が見られないのは事実だね。どんなことでもそうだが、それをあって当然と思ってしまえば、よほどヒマなとき以外は思考の枠外に置いておくだろう」
問う人「学校で教えるべきではありませんか」
知る人「そうだな。が、それ以前に家庭で基礎教育を施すべきだろう。母親は毎日と言っていいほど買い物に出るし、父親は多くの場合、モノを供給する側で働いている。需要と供給、どちらもその理念は家庭の中にもあるのだ。教えようと本腰入れれば、どこの家庭でもあるていどはできるはずなのだがね」
問う人「でも、やろうとしないですね」
知る人「日常の中の優先順位から言えば、それはだいぶ後の方になるからだろう。何せ今は問題が山積みだからな。金銭感覚を身に付けさせるならまだわかるが、消費とは云々、みたいな、根源に立ち返ったことに着手できる心のゆとりは誰も持っておらぬのであろうな。君はどうなのだ。君なら何をどう教えるね」
問う人「そうですね。自分は食品業界の人間ですから、食べることの大切さから教えたいですね」
知る人「昨今は資格商法が大はやりだが、食育何とかという怪しげな肩書が売られているだろう。ああいった連中が喜んでやりそうだな。しかしだな、そのていどでは消費者教育とは言えぬ。どうせやるなら本丸を攻めるべきであろう」
問う人「どういうことでしょうか」
知る人「消費生活の牽引役は、長い間、スーパーマーケットだった。1960年代、正確にはいつだったか忘れたがね、当時米国の大統領だったJ・F・ケネディが有名な演説をしている。曰く、スーパーマーケットの買い物かごの中身、これこそが今のアメリカの豊かさである、とね。この演説に感銘した日本の流通企業経営者は多い。スーパーマーケット業界の三巨頭=ダイエー・中内、ヨーカ堂・伊藤、ジャスコ・岡田。これらの方々、とりわけ中内氏は、強烈に影響を受けている。レジスターのキーを押す音はクラシック音楽にも優る、などの名言を残しているがね、当時は高度成長期だ、稼ぐ買う消費する捨てるまた買う、ということを繰り返して、買うモノの質も量も向上させていくのが現代の幸せな暮らしだという認識を世に定着させた人と言ってもよかろう。三氏いずれも偉大な功労者であることは万人が認めねばならぬ。が、そこにあったのは、あくまで20世紀の価値観であり、生き方だった。21世紀の暮らしを築くためには、前世紀の価値観を大幅に修正していく必要があろう。消費者教育の根本にこれがあるべきなのだ。所与のものとしてではなく、20世紀に付加された新しい考え方、新しい生活様式であるということを最初に学び、頭の中のあっちこっちにある重しを外していく。平たく言えばだな、買えば済む、という認識を根こそぎ修正しなければならぬ。買わずに済ませる、と聞けば、ガマンする、という印象を持たれるかもしれぬが、そうではない。金を使わぬのが本来の日常生活なのだ。そこに気付かせるのが、消費者教育の第一歩だろうな」
(以下、次回へ続く)
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