自然体で生きるには

【50代男性です。いい歳して恥ずかしいのですが、日々、気が重くて仕方がありません。自分を刺激する何かに牽引されていないと、朝起きることすらままならなくなってきたんです。もっと楽な気分で生きられないものか、と思います】

 

 

知る人「朝起きると憂鬱なのかね」

問う人「憂鬱、というのとは少し違うんです。憂鬱っていうと、沈みますよね。私の場合、そうですね、頭痛と無気力がひと揃えでやってくる感じ、と言いますか」

知る人「それも憂鬱の一つではないかと思うのだが、まあ、言葉の定義などどうでもよかろう。自分を刺激する何か、と言う部分を、もう少し具体的に」

問う人「刺激というか、鼓舞というか、要するに朝起きる瞬間、意識の中で『きょうも俺は○○をするんだ。そうして社会に貢献するんだ』みたいな、よく言えば激励の言葉でしょうか」

知る人「自己牽引車というかエンジンというか、自分を動かす原動力だな、それは。存在意義と言い換えてもよかろう」

問う人「そうなんです。自分はこれによって立つ。自分はこれをやるために生きる。義務感、使命感ですね。でも最近、そういうのを意識することに疲れましてね、第一、朝起きるのに義務感や使命感が必要って、何だかおかしいじゃありませんか。起床の瞬間から、自分はガチガチに固まった人間なんだなあ、って思うと、悲しいというか、やりきれないというか」

知る人「人間らしくもあり、人間らしくもないね。夜明けとともに目覚め、日没とともに眠るのがもともとの人間だ。ヒトの原点に帰って考えれば、君は原点から明らかにずれている。おそらくそれは、現代病の一種だと私は思う」

問う人「精神疾患か何かだと」

知る人「まあ、医者や心理臨床家、心理カウンセラーなどが今の話を聞けば、ややそれに近いことを言うかもしれぬ。だが、私に言わせればそんなものではない。精神病は病気だ。投薬やリハビリなど、専門家の適切な指導を受けることで快方に向かうものだ。今の君の状態は違う。君と言う人間の存在が危機にさらされている。多くの現代人たちは鈍感で無神経だから、君のような危機に襲われても無意識にかわしているのだ。君はそれを真正面から受け止めてしまった。もはや逃げられぬ。この壁を越えぬ限り、爽快な朝は遠いであろうな」

問う人「私には17歳の娘がいましてね、今悩んでいることは、娘なら健全だと思うのですが、50代の私がこんなことにとらわれてしまうなんて、いささか」

知る人「深く考えるな。悩みの周期は人それぞれだ。思春期にも、今の君と同様な悩みはあろう。だがね、実は似て非なるものだと言っておかねばならぬ。ここで小説の話をしよう。米国の作家、ロバート・ネイサンの『ジェニーの肖像』の冒頭にこんな一節がある。

そのころのわたしがどんなだったか、今ここで話すことはできない。何しろひどい時には言葉では説明できないような気違いじみた渇望に悩まされていたのだから。恐らくたいていの芸術家というものは、何かしらこういう時期を乗りこえて行ったものであろう。遅かれ早かれ、彼らにとって、生きているということは、絵を描いて、充分にか、あるいはそれに近いだけ食べることができればよいというだけではすまされなくなるのだ。いずれは神の審問に会うのだ。お前はわたしに仕えるか、それともわたしに背くのかという問いにだ。そして、芸術家というものはこれに答えなければならない。さもなければ、何もいえずに胸がつぶれてしまうのである。(井上一夫訳・ハヤカワ文庫。昭和56年)

…これは絵描きの物語だからね、君とはずいぶん違うと思われるかもしれぬ。だが、異なるのは職業のみ。人としての境遇、直面している現実の根は同じだと考えるべきであろう。ここでは、義務と権利の完全一致した、その先の世界に触れようとしている。この主人公は、絵を描くことが何より好きだ。だが、好きだから描く、と言う時期を、この男はとうに過ぎてしまっているのだな。かといって、食い扶持を稼ぐために義務感で描く、というのでもない。ましてや、画家という職業意識で務めを果たすのにも非ず。では何か。それがいわゆる ”自然体” なのだ。神と一体化したとき、この男ははじめて、社会性や職業意識を超える。神の定めた王道をゆくことになるのだな。そこは、歩かねばならぬ道ではない。歩くべき道でもない。歩きたい道でもない。歩いた方がいい道にも非ず。ではどんな道だというのか。それは、君が世界の自然の一部となるためにあらかじめ用意された、言わば君だけの一本道だ。そこは義務感や使命感を胸に抱いて踏み込む場所ではない。今までに君が学んだ経験・知識・情報などあらゆるものが渾然一体となり、それらすべてが君の中に分かちがたく織り込まれ、練り込まれて、君という存在が、それ以上分解できぬ最小単位となり得たとき、その一本道を歩き始めることが可能となるだろう。今はまだ、君の中で、義務と権利の二元主義が一体となるまでには至っておらぬ。厳しいようだが、いま少し苦しみ続けるがよい。あと少しだ。君自身が神の王国の中での最小にして最強の単位となったそのとき、何ものにも鼓舞されず刺激されず、自然と目が覚める朝を迎えることになるだろう。自然体で生きる、とはそういうものなのだ。あと少しだ。ここで折れてはならぬ。自分を保ち続けるのだ」

(了)

2189字。

 

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