7月29日付・産経<正論>に対する疑問
【産経新聞の<正論>欄に掲載された村井友秀教授の意見について、ワタシは疑問を抱きました。オリンピック開催の是非について論じているのですが、村井教授にしては今一つ論理的でないように感じられるのです】
知る人「私も読んだよ。『犠牲が尊敬を生むオリンピック』という題の論考だな。君は何に疑問を抱いたのかね」
問う人「簡単に言えばですね、今の日本の現状と、オリンピックの理想形とを対比して論じられています。これがどうも納得できないんです」
知る人「そうだな。村井氏の寄稿された文では、6月4日の『旧陸海軍の遺訓を忘れた日本人』が印象的だった。感動的でさえあった。が、今回はどうもいただけぬ。まずはじめに、
物事の善悪は、そのことによる善の合計が悪の合計を上回るかどうかによって決まる。大きな悪があったとしても、それを上回る善があればその行為は肯定的に評価される。
…とあり、続いて、悪はコロナの感染拡大、善は世界平和推進の象徴たるオリンピックを開催すること、とつながってゆく。さらに、バッハ会長の『日本人は粘り強さと逆境に耐え抜く能力を持っている』という賛辞を世界の常識だとも述べている」
問う人「村井氏の言葉を一つずつ検証していきますか」
知る人「その必要はなかろう。村井教授の論は、根底から間違っているからね。一か所を指摘すれば事足りる。それはだな、善と悪についての認識が、君の言った通りなのだな。つまり、現実と理想を対比させている。善が理想で、悪が現実だ。村井氏としては、単純な対立項としてではなく、悪を凌駕するための力として、理想という防波堤を立てたのであろう。だが、現実はまさに現在進行形なのだから、理想というものも、絶対的思想ではなく、漸次上昇してゆく現実的な考え方でなければなるまい。動いているものと、止まっているものとを闘わせるのは無理なのだ。こう言ってわかりにくければ、そうだな、短距離走者と砲丸投げ選手を、同じ陸上競技選手として単純比較するようなものだ」
問う人「いつもながら、切れ味の悪いたとえ話ですね…」
知る人「そう言うな。苦手なのだ。まあ、それはいいとしてだな、よく考えてみよう。村井氏は正統派の論客であるから、こちらとしても、正しい批判をしたい。コロナウィルスという敵を倒すのに、オリンピックの理想が果たして役に立つであろうか。いくら正義を振りかざしても、悪の剣は我らの胴を貫くであろう。我らが五輪開催に反対するのは、極めて俗な言い方を許してもらうならば、理想でメシは食えぬ、の一言に尽きよう。感染症の蔓延で庶民の生活が逼迫しているときに、なぜ世界の理想のために我慢せねばならぬのか。開催地として立候補したのだから云々、と推進派は言う。だが、その当時に今の惨状を誰が予測しえたのか。弱い立場の人々にしわ寄せがいき、必死で闘う医療従事者は報われず、その一方で美しい理想だけが巨大化して現実を浸食してゆく。そして、それをタテにとって、隠れ蓑として、商業主義五輪が開催される。オリンピックで得するのは誰か、と問われれば、村井氏もバッハも、日本人自身だと答えるであろう。だがそれは、オリンピックが金まみれでなく、五輪憲章そのままの純真無垢な形を保っている場合のことなのだ。今の五輪に、集金装置としての役割以外なにがあろう。海外からの出稼ぎ商人のために、地元・日本の商売人が場所を提供し、さらに、客人たちが稼ぎやすいように、日本の商人は店を閉めてあげねばならぬのだからな。それでも、我慢して当然だと言われるかもしれぬ。世界平和推進の大祭典なのだから、犠牲を払うのは当然だとね。確かに、全体への奉仕という考えも、ときに重要である。だが、今現在の我らにとって、全体とは<日本全体>を指す。決して全世界のことではないのだ。いや、そんなことを言っていては、いつまでたっても世界平和は実現せぬ、と反論されるであろうか。19世紀的帝国主義思想を隣国に見せつけられ、領海をおもしろいように荒らされても抗議ひとつできず、それどころか中国共産党に『百周年おめでとうございます』と祝辞を贈る御用聞きの国。それが我らの祖国・日本なのだ。自国の領土すら外国軍に守っていただく国に、世界平和推進役など重すぎるというものだよ。我が国に世界平和云々などと発言する資格はない。金輪際、平和の祭典などというものに立候補してはならぬ。荷が重すぎるから国論が乱れるのだ。身の程を知るがいい、我らが祖国よ。次世代を背負って立つ優秀な人材が育つまで、日本は冬の時代を耐えねばならぬ。オリンピックに現を抜かしている余裕はない。祭典の経済効果にも期待せず、現実を直視せよ。見たくない現実の姿を」
(了)
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