新聞を読むべき理由
【新聞の発行部数が激減していますね。インターネットの隆盛と見事に歩調を合わせています。新聞はもう役割を終えたのでしょうか。それとも、多くの市場と同じく、淘汰された末にいくつかは残るのでしょうか】
知る人「君はどう思うね。いずれなくなると思うか、それとも、今の試練を乗り越えれば、っていう考えか」
問う人「よく言われるように、今の危機は、新聞社自らが招いたという側面がありますよね。インターネットの勃興期に何の手も打たず、まだまだ大丈夫だ、と現状にあぐらをかいた結果とも言えます。だから、新聞側が今からでも改善を繰り返し、次代の姿を模索していけば、いくつかの新聞は残るんじゃないか。僕はそう思っています」
知る人「今はっきり言っておかねばならぬのは、紙媒体には固有の役割があるということだ。ひょいひょい、と親指一本動かせば確認できるネットニュースで事足れりと思っている人々は、自分自身が、大きな社会の中の小さな歯車にすらなっていない、という現実がわかっておらぬ。まあ、ことはそう単純ではないし、私たち日本人の民度の低さは目も当てられぬ状況であるから、一から順に説明していたら話がいつまでも終わらぬ。とりあえず、新聞本来の役割について、頭の中を整理しておこう。君にとって、新聞のもっとも大切な役割とは何だね」
問う人「僕自身にとっては、まず、紙面が大きいことで、ものを考えやすいと言えます。隅々まですぐわかりますからね。記事と記事との比較も楽だし、切り抜いて置いておけば、時系列的にも、論旨の展開の上でも、説得力が増します。それから、論説ですね。社内の論説委員や、外部の知識人による投稿など、いろいろありますが、じっくり落ち着いて論説文を読む、というのも、webでは難しいですよね」
知る人「その通りだ。論説、というのは実に重要な点なのだがね、まあ、それも含めてだな、ここで私の考えをまとめて述べよう。ネットニュースだけの世の中になると、何が良くないか。
1)インターネットの持つ根本的な性質から来る弊害:ひとことで言えば<信憑性>だ。自分で書き込みをしている人はごまんといるから、説明するまでもなかろうが、インターネット上の記事は、訂正・削除が容易である。また、文字化できれば、どこからでも情報を借りてきて書き込むことが可能だね。実際、出典のあいまいな ”引用” はいくらでも見つけることができる。コピー&ペーストは言うに及ばず、AIによる自動生成文も当たり前になってきた。ネット上でおもしろい記事を見つけ、あとで再検索したらもう消えていた、或いは修正されていた、なんてことは日常茶飯事だ。紙媒体は、なんせ一回発行したら訂正不可能、一文字も触れること能わぬ。
2)把握し辛い全体像:小さな画面向けの文章だから、全体をざっと把握するのが難しい。スクロールしていけばいいだろう、ぐらいにしか思っておらぬ者も多かろうが、それはだな、広い紙面を隅々まで読んだことのない者か、或いはその記憶がかなり薄れている人の言い分だな。全体が見える、というのは、ただ単に記事内容の把握ということだけではなく、その新聞が、記事同士の優先順位や重要性の強弱をどうつけているかも、一目でわかるのだよ。どこにも書かれていなければ、要するに、記事として扱う価値なしと判断されたわけだな。ネット上だと、とにかくあっちこっちへ誘導の道が用意されているから、実はどこかに書いてあるのかもしれぬ。書いてあったとすれば、そこに到達できなかった方が悪い、ということにもなりかねぬ。長くなってしまったが、全体がわかればそのときの報道は完結しているのだから、正当な論評ができる。ネットはいくらでも逃げ道があるから、上記1)の<信憑性>ともおおいに関わってくる問題だ。
3)長い論説文に不向き:君が言ったように、新聞の特長の一つは論説だ。とくに新聞の場合、筆者がどこの誰なのか、必ず明記されている。あまり知られていない人物でも、所属や肩書が書かれ、顔写真まで掲載されていることも多い。ネットでも同じだが、上記の如く、情報の信頼度に疑問符がつく。論説とは、あるものごとに対する論理的な分析である。速さを第一義とする報道とは本質的に異なる分野だから、読み飛ばしていいものではない。書き手がじっくり腰を据えて書いたのだから、読む方にもそれなりの態度が求められよう。そうでないと、中身を正しく理解できないからだ。論説を読むことによって、いわゆる有識者の思考に触れる。ろくでもない ”自称文化人“ もたくさんいるが、本物の論に触れるとおおいに勉強になるだろう。記事の読み飛ばしでは、このような思考力は身につかぬ。
4)文章技術に難:新聞や雑誌などの紙媒体には、必ずプロの編集者がいる。衆目に晒すに足るものか否か、専門家の目で厳しく判定するのだが、ネットの場合はこの機能がない。個人のブログと同水準のおそまつな日本語が氾濫しているのは、君も日々痛感しているだろう。今の日本語には、他民族に聞かせたくない、子孫に残したくない、と思ってしまうものが掃いて捨てるほどあるがね、その多くはテレビとインターネットで広がったものだ。
5)軽薄な風潮を助長する:昨今の若者は映画をコマ送りで見る、と話題になっている。川端康成の文芸作品を「コスパに合わぬ」などと言い放った経済人もいるそうだが、何でも短時間で、何かの片手間で済ましてしまうことが、軽薄な人間の増殖に一役買うのは間違いなかろう。
…以上、ずいぶん長くなったが、ネットニュースだけになって新聞が消滅することの弊害を述べた」
問う人「1)~5)すべてに共通しているのは、自分の頭で考えられない人間が増える、ってことですよね」
知る人「その通りだ。テレビでも新聞でも、深刻な報道と芸能人の醜聞を同程度で報じたり、大谷選手の活躍の陰に隠したりして、時の政権への忖度か自主規制か知らぬが、とにかく、報道する者の使命を忘れている。が、このような現実に対して声を上げる人は少ないし、上げてもメディアが取り上げない。かくの如き惨状の中で生きている私たちは、これが普通だと思っておるのだな。なんせ、生まれたときからずっとこの環境なのだ。平穏な日常に波風立てようとする者に背を向けるのは、今や私たち日本人の全世代に見られる特徴と言ってよい。自分で考えるより、上から、まわりから、あてがえられている方が楽だからな。そんな態度を助長するのに、テレビやネットニュースは実に重要な役割を演じていると言わねばなるまい」
問う人「結局のところ、新聞本来の役割に戻るべし、ってことでしょうか」
知る人「いかにも。明治維新の頃、まさに雨後の筍の如く、新聞がたくさんできたではないか。ほとんど消えてしまったがね、あの頃の新聞人たちの多くは、自分の頭で考える読者を増やそうとして闘っていたのだよ。結局は負けたじゃないか、戦争を防げなかったじゃないか、などと、わかったような口をきくものではない。歴史は繰り返す、とはよく言われることだが、(二度とこんな時代が来ないように、自分たちが今がんばらねば)と思って必死で働いた人々もまた、たくさんいたのだよ。繰り返してはならぬ歴史とは何か。これを自分の頭で考えられる日本人を育てるためにも、新聞が消えてしまってはならぬのだ」
(了)
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