同じ床屋に通う訳

【暮れも押し迫ったきょう、床屋でさっぱりしてきました。もう何十年も通ってるところで、ダンナもまだ現役でがんばってるから、客のことをよく知ってるんですよね。少しぐらい高くても、自分はこの方がいいと思ってるんです】

 

知る人「低価格店が増えているなか、君は古い商売との関係を続けているのだね」

問う人「ええ。確かに高いですよ。チェーン店の三倍かかりますから。でも、きっちり全部やってくれるし、ダンナとの会話も楽しいし」

知る人「低価格店の場合、昔ながらの理髪店とは、サービス内容が違うのではないかな。安いところは、顔を剃ったりはしないだろう」

問う人「そうですね、髪を切るだけですよね」

知る人「そこに通い始めて、どのくらいになるのかな」

問う人「大学生の頃からですから、もうすぐ三十年になりますね」

知る人「そのくらい馴染んでいれば、君の髪や頭のことは知り尽くしているだろうね」

問う人「それはもう。きょうも、頭のかどの毛が細くなって、立たなくなってきたねえ、なんて言われたところです」

知る人「長い職業人生のなかで、そのダンナはそうとうな数の頭を見てきたのだろうね。どこの冗談ネタだったか忘れたが、歯医者が町を歩いていて、ある人物に『先生』と声を掛けられた。その相手の顔を見てすぐ思い出せず、口を開けさせて、歯を見てからようやく『ああ、○○さんね』と納得した、という話がある。まあ、床屋さんは髪でわかるだろうが、単なる笑い話以上の意味があると私は思うね」

問う人「なるほど。職業人としての誇り、ですか」

知る人「そこまで難しく解釈することもあるまい。要は人だよ、人間関係だ。歯を見なければわからぬ、というのは冗談に過ぎぬとしてだな、患者、まあ、商人で言えば顧客だな、これをしっかり掴んでいる。地域の頼れるセンセイとして、町に根を張って暮らす。床屋も同じだね。おれの頭のことなら何でも知ってるぜ、あそこのオヤジは・・・と、近所の人々に信頼される。これだけでもう、素晴らしい生き方だよ」

問う人「そうですよね、チェーン店の場合、店員が長続きしないんですよ。(あのおにいさん、けっこううまかったな)と期待して行ったら、もうやめてた、なんてこともありましたしね」

知る人「大昔の商店の如く、店員たちが辛抱して長く働くというご時勢ではないしな。その点、町に根を張った個人事業主なら安心だ。いなくなるのは廃業するときだけだから。政治家の無策のために長く不況に耐えている私たち庶民としてはだな、価格は安いに越したことはない、と思う場合が多かろうと思う。だが、人間はいつか地域と一体化して落ち着くようになるものなのだよ。それが何歳ぐらいかは個人差があるし、そうならぬ人もいる、なることが叶わぬ人もいよう。だから必ずそうとは言わぬ。ただ、便利なだけの世をいつまでも追い求めてゆけば、人間らしさを失うのは覚悟しておかねばならぬのだな。誰しもそのような覚悟などするまい。長屋の八っつあん的雰囲気で始まった今回の記事だが、当サイトらしく締めくくろう。床屋でも何でもよい、自分の地域に根を張った商人と、長く関係を結ぶべし。安くしてくれる、などと目先のことではなく、地元民として、あるいはその町に馴染んだ人として、人と人との自然で当たり前の関係を築くのだ。これがあれば、例えば孤独を感じたとき、消費者として暴走しかかったとき等々、自分の中の歯車がかみ合わぬようになったときに、人が救ってくれるのだ。もちろん、助けを求めるという意味ではない。当たり前の人間関係を持っているということが、当たり前から外れそうな自分にとって、勇気になったり、支えになったりするものなのだよ。 ”近所づきあい” と聞けば顔をしかめる向きもあろうが、自分は一人で生きているのではない、ということに気付かせてくれる人がそばにいる、これはこれでとても大切な、生き抜くための条件なのだ」

問う人「最後は力はいりましたね」

知る人「休日が少ないのでな、少々疲れておる」

問う人「てことは、今のはけっこう無理して話したんですか」

知る人「想像に任せよう」

(了)

1680字

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